典子 10
結局お義兄さんは私と顔を合わせることなく、主人に会いに工場へ行ったわ。
向こうへ行ったと聞いて、私に言いたかったことはなんだったのかしら?と
気にならなくもなかったけれど、それを吹き飛ばすくらい驚いたのは、
たった三日間の出張で帰ってきたお義兄さんと顔を合わすのより先に、
主人から
電話が入り、会社とは関係のない、家族名義の貯蓄がいくらあるか
聞かれたんだもの。
一瞬聞かれたことの意味がわからなかったけれど、
金額を即答できないでいるうちに
主人が説明してくれた。
第二工場は、会社と関係なく、主人個人のお金で建てることで話が付いたということ。
今までだってそういうことがなかったわけじゃないし、筆頭株主なのだから
それが変というわけでもない。
でもそこまで巨大な計画を一人で抱え込むとは
思いもしなかったの。
当たり前だけれど、大体の貯蓄額を伝えても、それで足りる金額じゃない。
結局最初の工場全部を担保にいれ、会社からの一部借り入れと言う形でなんとか
お金は用意できた。
お義兄さんは、このことを私に言っておきたかったのね。
会社としてはそうするつもりだけれども、私はどう思うかと聞きたかったんだわ。
主人の会社だもの。そういうことがあっても仕方がないとは思いつつ、
それが家族以外
の人間に指図されたと思うと、私はなんだか面白くない。
もちろん私にだって、主人の知られていない口座くらいあるもの。
持って行かれたものに
比べたら微々たる金額とはいえ、全てを渡したと言うわけではないわ。
それでも、手元に感じられていた重みが何もなくなったと思うと、
やはり心細いもの はあったの。
確かにその通帳の重みを作り出してくれた一端がその工場であったとしても、
目に見えない現実味のないもの。
最初からかかわってきたこっちの会社のような愛着も
なければ、
その存在自体もあるのかないのかはっきりしないような、私には
関係のないものだったわ。
だから気分的には、工場がうまく行っていようといまいと、私はどうでも良かったの
だけれど、
問題は、誰もが知っていることだけれど、バブル景気はそういつまでも続かなかった。
第二工場はそれでも動き出したけれど、結局フル操業することは一度もなく、 閉じなければならなくなったの。
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正直、私もまさか、主人の始めたことが失敗するとは思っていなかった。
だって、今までだって、そんなとんでもないと思えるようなことも、
みんな
主人が決定して、うまくやってきたんですもの。
だから、第二工場を閉鎖することになったといわれたときは、本当ショックだったわ。
バブルがはじけて、不景気が目に見え始めても私は主人の工場だけは潰れることは
ないと、
なんの疑問もなく思っていたのだから、習慣って恐ろしい。
景気崩壊のすごさはどうしようもないくらい早くて、たとえ、会社が予想していたとか
用心していたから大丈夫ということは決してなかったのですもの。
最初は景気が悪いから仕事がないと言うわけじゃあなかった。
景気の良いころの常で、たいして知りもしない相手と取引をする。
さて、商品引渡しと言う段階になって、先方がお金を払えないという。
不渡りを出す。
商品は詐欺同様に持っていかれることもあれば、全て手元に残ることもあったけれど、
お金が回らないんじゃ、結局のところあまり変わわらなかった。
そのうち今まで長年お付き合いして、相手の事情もすっかりわかっていると思っていた
取引先や、
どれだけ不景気だと言っても、これだけの商売をしているのだから、
と思っていた取引先なんかが、
次の月には不渡りを出す。
どこに商品を納品すれば、ちゃんと支払いをしてもらえるのかわからない、
まるでロシアンルーレットの様な取引。
かと言って、まったくおびえて仕事を
取らなければ会社自体が成り立たない。
かく言う私たちだって、借金を抱えての操業。
いつ潰れてしまっても仕方がないような
状況で、下請けの会社や取引の会社にはずいぶんヒヤッとした思いをさせたと
思うわ。
そうして、商売になるかどうかもわからないような仕事も次第に減っていって、
景気は本当に悪くなっていったの。
そんな状況では、生産を縮小しようとは考えても、拡大しようと言う話は
土台無理。
自分達が何とか乗り越えて行くので、精一杯。
そんなころに、始めたばかりの工場だったのだもの。
閉めればそれで良いってそういう問題じゃなかった。
有り金をはたいたとはいえ、最初の工場だって、そっくりそのまま担保に
入れて作ったでしょ。
二番目の工場を閉鎖するだけじゃ、借金の利子がそのまま私たちに、いえ会社に
のしかかってくる。
でも、それを抱えてやっていけるほど見通しは明るくない。
それでも、それから一年近くも最初の工場は全部じゃないとはいえ、稼動させて
いたのだけれど、
結局、仕事のほうが付いていかなくなった。
仕事はない。
借金もある。
でも会社が潰れたわけではないのだから、
破産して全てをなかった事にするわけにもいかない。
そんな状況で、結局あれだけ儲かっていた最初の工場もただ同然どころか、マイナス分の 借金まで残して、人手に渡ったの。
++++++++++
工場は二つとも人手に渡って、残されたのは、日本の本社だけだった。
海外に工場が出来たから、本社なんて立派な肩書きが付いていたけれど、
事務所と応接間を兼ねた建物、工場、従業員さんの休憩用の建物が二つ。
従業員さんの休憩室は、景気の良かったころに一つでは足りなくなって、
あわててもう一つ足したものだけれど、
そのころには、元からあった古いほうが
すっかり物置状態になっていたわ。
近代的でもなければ特に大きいというわけでもない、本当、普通の町工場。
私たちに残されたのは、これだけだった。
それも、工場分の借金付き。
どうしたって私でどうにかできる額では、ない。
借金の事は、事情をわかっていたお義兄さんだし、当たり前のことかも知れない
けれど、
会社で何とかしますよと言ってくれた時はほっとした。
以前の私はすっかり勘違いをしていたよう。
お義兄さんは会社を乗っ取ろうと考えたり、
幹部を連れて独立しようなんて、
そんなことこれっぽっちも考えていなかったわ。
いつも真面目な人という印象があったのだけれど、バブル崩壊後の
お義兄さんは人が違ったようだったの。
どちらかというと、営業は苦手。
にぎやかな席も好きじゃない。
それなのに、自ら営業に回っているのはたまにしかあわない私にでもわかった。
お義兄さんは会社を存続させるのに、必死になってくれたの。
それは、すっかり後になってからわかった事だったけど、
どうがんばっても返済分のお金が賄えないときは、
その分はお義兄さんの 懐から出ていたのね。
決済を見て、不明に多い金額を見ても「会社にだって、へそくりくらいありますから」
そう言って笑う言葉を信じていた私は本当バカね。
忙しくて、やつれたかなとも思っていたけれど、私は疑っていた事を謝れない自分に
後ろめたくて、体を気遣うような言葉はかけられなかった。
そうして会社は、長くはかかったけれど少しずつ安定してきた。
持ち応えた、と感じるにはまだ早かったけれど、それでも、このまま何とかしていくぞ と思える気持ちの余裕が出てきたわ。
そのころには、お義兄さんも会社に縛られっぱなしでは無くなって、
休みの日には、趣味の釣りや、「付き合いだったのが意外に面白くて」と言っていた
ゴルフにも、
接待とは関係なく出かけていくようになったわ。
相変わらず痩せたままだったけれど、いつ見かけても張り詰めたような表情をしていた
お義兄さんを見て、
私もなんだか安心できた。
そう。バブル後のあの大変な時期を乗り越えられたのは、全てお義兄さんの
おかげだったの。
主人は何をしていたかって?
彼は、ここの一国一城の主であるという事を忘れてしまったのかも知れないし、
もしかしたら、日本人であるということを、忘れてしまったのかもしれない。
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