典子 9

私は子供には親がけんかしているところなぞ見せてはいけないと思って ずっとやってきた。
でも、それは間違いだったみたい。
目の前でけんかすることがあっても、ちゃんとコミュニケーションを とって、
笑いあうこともある夫婦じゃなきゃ 子供にとっては一緒なのね。

ううん。きっと子供じゃなくても、一緒に暮らしているものだったら
そういうことは敏感にわかってしまうのでしょう。

でも、私自身主人のしていることにどう向き合っていいか わからなかったのだもの。
彼女たちがそれをどう感じているか なんて、考える余裕なんてなかった。
ましてやあの頃の彼女達はまだまだ子供。
体もすっかり大きくなって 女らしくなった今なら、私はもしかしたらそんな二人に相談もできた かも知れないけれど、
あの時はとんでもない事だったわ。

あの子達の何かが壊れちゃったんじゃないかしら?

そんな心配をし始めて、私はどうしたらいいだろうと思っているうち に、主人から電話があったの。
「工場をもう一つ建てようと思うんだ」
私にはもうどうでもいい事だった。

子供達の様子がおかしいとちょっと話を持ち出してみたけれど
主人は女同士なんだから、そっちのほうが良くわかっているだろう とそれだけ。
半分わかっていたような答えだったけれど、私はさびしかったわね。
私だけじゃなく、子供もあなたにとってはどうでもいいものなのかしら?

そう子供のことが気になりながらも、それを忘れてしまうくらい
主人の新工場建設案は思いがけなく会社に爆弾を投げつけたようで、 大騒ぎになったわ。

まだ行けるという主人と、この景気はもう下り坂だというお義兄さん。
最初の工場設立の時以上に対立したの。
実際私も、景気に一時期のような勢いはなく、なんとなく空回りし始めて いるような感じが無くも無かったけれど、
こと仕事に関しては、私は、主人ができるといえば、 本当に何とかなるような気がしていたし、
なんとも言えなかったわ。

ただ、主人は、こう言っては何だけどその時すでに、すっかり
「日本では見かけなくなってしまった人」になってしまっていたの。
前にも言ったとおり、日本の会社でだって、好景気で増えた社員は 少なくなかった。
そのほとんどが名前だけで実物の無い「社長」の 存在を知るだけ。

以前は途中から経営にかかわってきた、今では専務であるお義兄さんに
冷たい顔をすることもあった古くからの社員も、今では日本の業務全般を取り仕切っている専務との関係は
ずっと安定していた ものになっていたし。

はっきり言って、こちらの人間すべてがお義兄さんについているような 感じだった。
主人は一人孤立したような状態で新工場設立を言い出したことになったの。
さすがに私は少し怖くなったわ。

子供達のことが心配じゃないわけではなかった。
でも所詮は、遠く離れた都会でそれなりにちゃんと生活を送っているようで すぐさま何か起きるわけでもない。

それより今、会社が今どうなるかと言うような騒ぎを始めて 私はともかく、会社のほうをどうにかしなくちゃと、そう思ったの。

++++++++++

主人が向こうでどんな暮らしをしているか、私は知らなかったわ。
前にも言ったけれど、私が向こうに行ったのは、工場の開幕式のその ただ一回きりなんですもの。

「もう、社長の道楽で潰してしまえるほど、小さな会社では なくなったということです」

お兄さんにそう言われた時、正直どきっとした。
主人がどんな生活をしていようと、目の当たりにしない限りは 向こうは向こうで忙しいのだからと
思えることが出来た。

でも、仕事の関係で向こうにも顔を出すことのあるお義兄さんにそういわれると
それで、主人の暮らしぶりが透けて見えたように思えたのだもの。
そのとき、何をどう聞いたというわけではなかったけれど、でも、とても 嫌な気持ちがしたわ。

初めから、専務とするお義兄さんに賛成する向きの強かった会社内部は、
その一言で、本社の意見として新しい工場設立は反対と主人に伝えたわ。
もちろん、その意見が伝えられる前に私のほうにも相談をしにきた、
会社の役員と呼ばれるようになった昔なじみの社員さん達。

お義兄さんを先頭にして、それはあくまで私の意見を聞いてくれるということ だったけれど、
それなりに会社を仕切ってくれている男性数人を相手にして ものを言うほど
私は会社のこともわかっていなかったし、かかわってもいなかった。

そのとき初めて会社が一人歩きしているなと思ったの。

主人がいなくても、会社の経理は私が目をとおし、税理士との話し合いはいつだって 私も一緒だわ。
素人ながらも会社がどういう風に変化しているかくらいは 目に見えていたから、
今までそんな心配をしたことは無かったの。

実際、主人の「社長の海外営業部担当」と言う無理やりとってつけたような 役職が、
それでもそれなりに機能しているなと感じられたのだって、最初の間だけ。
契約を取ったり、新しいサンプルを作ったり、核となる仕事をしているのは すべてこちらなのだから、
海外営業部なんて本当名前だけ。

発注された製品を、数量そろえて輸送手続きを取れば良いその仕事は
わざわざこちらから人を派遣しなくても、信頼のある現地の人間がいれば 任せられるような内容なのだもの。

それでも主人は国民性の違う人種を使うことは簡単じゃないからと
いろいろ難しい話を並べて私を納得させていたけれど、
やはり冷静に考えて 主人が会社をないがしろにして新しい工場を気にかけている、
いいえ、 もっとはっきり言うのなら、新しい土地での生活にのめりこんでいるのは
目に見えているもの。

古くからいる会社の人間たちがそんな主人に不安感をもつのは当たり前かも 知れない。
でも、会社を始めたのは主人。
会社は主人のものだわ。

私はそのとき「会社は主人のもの」と公然と言い切れるほど主人に思い入れがあった わけでもないし、
結婚以来ずっとかかわってきたこの会社自体に思い入れが あったというわけでもなかった。

でも、会社が私達のものでなくなったら?と思ったら、
じっとしていられなく なるくらい不安であったことは確かだわ。

++++++++++

実際、私はそのときに、お義兄さんに会社を乗っ取られるんじゃないか? って思ったわ。
会社はとっくの昔に有限会社から株式会社に替わっていたの。
でも、株の半分以上は主人にあるはず。
総会による主人の退陣はありえないわ。

横領? 毎月の決算には私だって目を通しているわ。
でも、そこには、たとえ何かしらの不正があったとしても十分すぎるほどの 収益があった。
主人からはすっかり電話も少なくなっていたけれど、電話があれば、必ずと 言っていいほど仕事のことだったもの。
向こうでどれだけの製品が作られているのかは、大体予想できた。
会社から出来上がってくる決算表は、その主人の言っていることからも大きく外れる 事は無かったわ。

それでも、私は信用できなかったのね。
何がそんなに信用できなかったのかは わからない。
でも、一度不安になってしまったら、どうしようもない事って誰にでも あるでしょう?

私はそれだけでは物足りなくて、今度は
「お義兄さんは、もしかしたら、会社の使える人間を引き抜いて、 独立してしまうんじゃないかしら? 」
と思い始めたの。
そう思い始めると、また私はたまらなく不安になる。

私が一人で会社を まとめていけるはずが無い。
今考えるとおかしいのだけど、私その時、もし、会社に何かがあっても 主人が帰ってくるとは、
ぜんぜん考えられなかったわ。

そんな風に思いながら、いても立ってもいられなくなって、 ついつい、用事も無いのに会社に行っては、
うろうろと時間を潰したわ。

今は上役と言って、事務所を出入りしている彼らも、
昔は主人と一緒に工場で 働いていた人たち。
社員の前では、すっかり貫禄が付いているけれど、お昼休みなんかに 皆で集まってお茶を飲んで
くつろいでいる姿が以前とぜんぜん変わらない。

中には、主人よりもぜんぜん年上の人もいるわけで、そんな彼らが、私の姿を 見つけて、お茶を薦め、
「退職したらボケそうだもんね。社長に頼んで、定年後はアルバイトで ここの技術指導なんて感じで、やっとってもらえませんかね?」
そんな話を半分冗談でしてくれるにもかかわらず、
私は、あるのか無いのかさえ わからない、その言葉の裏を探って、心が落ち着かなかった。

そんな訳で。
ちょうどその頃、「時間が出来たら会社のことで相談したいことがあるのだけど」 と
何度となくお義兄さんに言われていたのを、私は何かと理由をつけては 断っていたわ。

お義兄さんは、義理の兄であるにもかかわらず、 私よりずっと年上であるにもかかわらず、
社長の妻として、より長い会社経験を持っている者として、
私に紳士的に接して いてくれて、それは私にとってうれしいことであったはずなのに、
今はかえってそれが気味悪かった。

私が彼を避けていることは、周りも気が付き始めるほどに、私は彼と話せなく なってしまったの。

親切そうな顔をして、この人はこの会社を狙っているのかも知れない。 そういうふうにしか思えなかったのだもの。

 

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