典子 5
私との事は、「急な仕事」より重要じゃないわけ?
それとも、もしかして、
今日もその女性に会いに行くの?
勝手にそう思っただけで、体がかっと熱くなる。
じっと黙っていると、
持っていた皿を投げつけたいような
衝動に駆られる。
ああ、私、嫉妬してるわ。
すっかりいてもいなくても当たり前で、
夫婦らしい事なんか、なんにもしていなかった私達なのに
こんな気持ちが残っているのね。
帰ってきた子供達はのんきそうに
お母さんはもう大丈夫みたいだねと笑っている。
父親が帰ってこないことを当然と感じてしまっている彼女達は、
すでに出来あがって食卓に乗っている料理を
さっさと食べてしまおうと催促する。
旺盛な子供達の食欲に救われもしたが
私の口の中には砂が混じってしまったような感覚があって、
おいしいのかどうかわからなかった。
子供達がいて、無意味な雑音を作り出してくれることで
かなり気が紛れたけれど、後片付けなど一人で仕事をしていると
失望と、嫉妬と、妙な不安に駆られて泣き出したくなる。
それを悟られないようにするのに、気を使った。
電話が鳴ったのは、夜11時も過ぎてからだった。
帰ってこないなら、せめて連絡くらいは…と待っていたはずなのに、
いざ電話がなると、妙に悔しくて取りたくない。
出来ればそのまま放っておきたかったくらいだったのを
子供達が気がついても困ると思って、やっとの思いで取る。
思いがけなく、電話の主は義兄だった。
私にひとしきり謝っている。
自分のミスのせいで、主人が今日どうしても外せない接待が
出来てしまったと。
主人は本当に今日は帰るつもりだったのだと。
まだまだ帰れる気配は無いけれど、どうしても機嫌を取りたい
取引先だから、
社長をもう少しかして欲しい。
そうやって、懸命に説明されたら、
私が嫉妬で気が狂いそうになって、イライラして
待っていたのを
見透かされていたみたいじゃない。
主人の居場所を聞かされて、ホッとしている自分がいる
そのすぐ脇で
お義兄さん、どうしてもっと放っておいてくれないの?
これは、私とあの人の問題なのに、 と、
いらついている自分がいた。
心ではそんな所にまで気を使わないで!
そう叫んでいるのに、口に出すことは出来ず。
わかりましたから、こちらは気にしないで下さいと
電話を切る。
電話を取る前より、余計に惨めな気持ちになった。
主人は帰ってこない。
昨日は何処へ泊まったの?
父親のいない朝を平然と受けとめている子供達の隣で
帰ってこないことを妙に気にしている自分がいて、
そこに不均衡感がある。
父親が浮気していると知ったら、この子達も こんな普通にしていられるのだろうか? とふと考えた。
++++++++++
もともと、子供達が病気になろうと、周りで不幸があろうと
会社を飛んで抜け出してきてくれると言う事は
ない人だったから、
私がただ漠然と「話し合いたい」なんて言った所で
こっちを優先して帰ってきてくれると
思うほうがバカだったのかも知れない。
それでも、私達がちゃんと向き合って、座ることが出来るまでに
それから1週間も待たなければならないというのは
私にとって、到底理解できる物じゃなかった。
実際、後でわかったことだったけれど、
お義兄さんのミスで、問題が起きてしまった相手と言うのは
そのころの会社にとって一番の、と言って良いくらい
大きな取引先だったのだから、
主人が1週間帰ってこなかったとしても、
いつもの私だったら、特に気にする事でもなかった。
待つ必要のなかった私にとっては。
毎日静まりかえった夜になると、
いっそのこと、
包丁を持って主人のいる所まで行ってしまおうか
行ってしまった方が楽なのではないかと考え始め
更に眠れなくなる。
1週間待たされたのは良かったのか?
悪かったのか?
待たされた分だけ、勢いが抜けて
実際顔を合わせた主人に思いつく限りの罵声を浴びせて
会話が成り立たなくなるのを防げたと言う意味では
良かったのかもしれない。
けれど、実際ただ待っているだけの1週間を過ごした
私はたまったもんじゃなかった。
その分、恨みも強くなったような気がするわ。
いつものような調子のまま、リビングのソファに
浅く腰をかけている主人は言ったのよね。
「家庭を捨てるつもりもなければ、離婚するつもりもない。
ちょっと魔が差しただけだよ」
…それは、もうしない。もう終わった事だと言うことかしら?
…それともこれからも、今まで通り生活の保証はあるから
安心しろと言う事かしら?
「向こうの女の人は、どう考えているの?」
最初に私が言ったのはそんなような言葉だったと思う。
でも、その後から続く主人の言葉は、私の聞きたくない
事ばかりだった。
はっきり覚えているわけじゃないけれど、
割りきっているとか、そんな女じゃないとか、
そんなことだったような気がするわ。
ねえ、あなた。 私に言うことはそれしかないの??
++++++++++
私は主人に謝って欲しかったの。
多分それは、あの時の私は気がついていなかったことなのだけれど
魔が差したんでも、本気なのでも、そう言う事はともかく
「すまん。俺が悪かった」
と言って欲しかったの。
でも主人からは結局その言葉を聞く事はなくて、
彼女とは別れてきた事。
だからこれ以上彼女との関係が
続く事はないから安心して欲しいと言うことを強調されたわ。
「その保証は何処にあるの?」
「彼女が本気じゃないってどうして言える?」
「あなたがもうしないって、どうしたら信じられる?」
「もうしない」「誓うよ」「信じてくれよ」
帰ってくる返事はどれもそんな感じで
ヒステリックな意味のない会話が進んで行く。
ああ、あれはヒステリックって呼ばないのかもしれないわね。
確かに私は腹の底が暑くて暑くてし方のない思いをしていたのだけれど
私達は子供達が驚いて飛び起きるような
大声は出さなかったのだもの。
主人は子供を気にして大声は出せないなんて、そんな人じゃない。
たとえそれが自分の浮気に関する事であってもね。
私のたがが外れてヒステリックに叫び出せば
それを押えつけるような大声を出す人だと言う事は
よく知っているわ。
私は決して子供達に知られたくなかった。
だから大声は絶対に出さなかった。
私が大声を出さなければ、彼もまた大声を出す事はなかったわ。
ただ、主人は私の堂堂巡りとも言える質問に
激しいストレスを感じていたのね。
時々こめかみを押えて、眉間に皺を寄せて目をつぶる。
「これ以上俺にどうしろって言うんだよ」
そんな事は私のほうが聞きたいわ。
私は一体どうしたら良いの?
どうしたら、以前のような気持ちに戻れるの?
なにも言わないまま、睨むように主人の顔を見ている私。
音のない部屋にヒステリックな空気が流れているのが解る。
唐突に主人がテーブルを叩いたの。
その音は思いがけなく大きくて、飛びあがるほど驚いたわ。
そして、私の顔をしっかりと見つめて主人は言ったの。
「この話はもう終わりだ」
主人はそのまま寝室に行ってしまったわ。
まだ、なにも話し合っていないじゃない?
そう思えるのは私だけなの?
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