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中東紀行 3つの大陸のつなぎ目を歩く 2000年5月

12日目

 

5月21日◆日曜日

パルミラ→マルーラ村→ダマスカス

 
 
 
 
 
 

アラム語

シュメール人が開いた文明を、メソポタミア文明に発展させたのは、セム語族系の諸民族。
アッカド人、バビロニア人、つぎにアッシリア人、アムル人。
彼らはアラビア半島から北上してひろがり、西方シリア、フェニキア、パレスチナにもひろがった。
つぎに登場したのがアラム人。彼らがつかっていたのが、アラム語だ。
ちなみに、イスラエル民族はアラム語族の別派。パレスチナに定着すると、先住のカナン人のことばをつかうようになった。それがヘブライ語だという。
最後に登場したのが、アラビア語をつかうアラブ人たちだ。
おなじセム語族から生まれた3つの宗教が争っている。骨肉の争いというものだろうか。

パルミラへMAALULAダマスカスへ

古代アラム語がつかわれている村

砂漠の道をダマスカスへ。とちゅう、砂漠のなかのみやげもの屋で休憩。素朴な動物の置物があり、カミさんがほしがったが、ドルでは買えなかった。

店をでると、砂利のうえにヘビがいた。頭を砕かれている。1cmほどの細さだが、長さは80cmほどもある。杉あやのような白黒の繊細な模様。無造作な放置のしかたからみて、毒はなさそうだ。

長い砂漠の道がつきて、アンチ・レバノン山脈が近づいてきた。山に分けいる。ダマスカスの北東60km。マルーラ村が、石灰岩の山肌にしがみついている。

パウロによってキリスト教に改心した少女タクラが、父親に追われ、岩山にはばまれた。そのとき、山が割れて、のがれることができた。それがこの谷だという。

村の入口で、金色のまつげの目の大きな少年が、バスにのりこんできて、運転席のそばで歌いはじめた。ほとんど旋律のない、アラム語の古い歌。この村では、いまだに古代のアラム語がつかわれているという。

アラム語は、アラブ語に先行するセム族の言語。イエス・キリスト時代のユダヤ人もつかっていた。ナバテア語もパルミラ語も、この語の系統だという。

岩山に抱きすくめられたような、聖タクラ修道院にはいる。伝説の少女をたたえて建てられた、ギリシア正教の修道院だ。細密なイコンが飾られた礼拝堂で、若い女性が唱えるアラム語のお祈りを聞いた。肺からいっきょに息を吐きだして発音する、H音の多い言葉。「ヴェツレヘム」という語が聞こえた。

マルーラ村へDAMASCUSイスタンブールへ

はじめて殺人がおこなわれた山

ダマスカス。ローマの支配が700年もつづいたあと、
636年、ウマイヤ朝がここに都をおいた。

街に近づくと、みぎての山を指して、ガイドがいった。
「はじめて殺人がおこなわれた山です」

旧約聖書の話だ。カシオン山。この山で、アダムとイブの息子カインは、弟アベルを殺した。
「アベルは羊を牧う者カインは土を耕す者なりき」
兄弟の対立。農業と牧畜の対立。いまも争いはつづく。

第1時世界大戦のとき、アラビア半島におこったアラブ解放軍は、メッカのカリフやアラビアのロレンスに率いられ、ダマスカスをめざした。やがてカリフの息子ファイサルが国王となる。いまはアサド大統領をいただく社会主義国の首都だ。

◆ダマスカス旧市街

旧市街にむかう。兄弟の対立、農牧の対立、そして宗教の対立。カインとアベルゆかりの街は、西のイスラム教徒地区、東のキリスト教徒地区にわかれている。

まずは、西のイスラム教徒地区へ。

にぎやかなスーク・ハミディーエの人混みをぬって、つきあたりの崩れたローマ凱旋門をくぐると、ウマイヤ朝の中心寺院ウマイヤド・モスクがある。

寺院の墓地といった風情の外庭に、サラディーン廟がある。サラディーンは、十字軍を打ち破り、キリスト教がわにも尊敬されたアラブの英雄だ。

ウマイヤド・モスクがある場所は、はるかな昔からの聖地。時とともに、神がかわった。アラム人のハダテ神殿、ローマ人のジュピター神殿、キリスト教の聖ヨハネ大聖堂、そしてイスラムのウマイヤド・モスク。

カミさんは、カフタンをかぶる。「花嫁の塔」のしたにある北口から、ひろい中庭にはいる。122m×50m。中央に、お堂がある。なかに泉があるという。ひだりに「時計のドーム」、みぎに宝物庫がある。銅錆色と金色のモザイク模様が絢爛豪華だ。

中庭に面して、全長137mの巨大な礼拝堂がある。中央のミフラブのひだりてに、その首がサロメに与えられたという、あの洗礼者ヨハネの墓がある。もとはといえば、キリト教の聖堂。はじめ70年は、キリスト教徒の礼拝も許されていたという。

堂内には、足を放りだして昼寝している奴が、何人もいた。いい加減そうな日本の寺でも、ああはいかない。イスラムの戒律というのは、そういう面ではツベコベいわないものらしい。

モスクをでて、香料にむせかえる屋根つきのスークを通りぬけ、西から東への「まっすぐの道」にでた。幅1mもないような歩道に立っていると、わき腹をこするように頻繁に車が通る。とてもローマ時代の列柱道路とは思えない。かつては20mの幅があったという。

キリスト教区にパウロの足跡

この道を西へ、アナニヤが歩いた。天の光に打たれて目の見えなくなったパウロを救うために──迫害者パウロが改心する、新約聖書の中の有名な場面だ。

ぼくたちは、この道を逆に東へ歩いて、キリスト教徒地区のアナニヤ教会にはいった。地階に礼拝堂がある。

迫害をのがれるために、こうなっているのかと思ったら、かつてはそこが1階だったという。長いあいだに、2階の高さまで堆積がすすみ、1階部分が地下に沈んだのだそうだ。パウロ、アナニヤゆかりというだけに、いかにも古い。

東門近くには、パウロ教会がある。こんどはキリスト教徒として迫害を受けるがわになったパウロが、城壁からカゴで吊りさげられて脱出した場所だそうだ。

 

ダマスカス
国立博物館

正面に見えるのが、カスル・アルヘイルの門。

ダマスカス国立博物館

2000年ぶん時計を早まわしして、新市街へ。ロレンスがさんざん線路を爆破した、ヒジャーズ鉄道の始発駅のまえをすぎる。ダマスカス国立博物館へ。

博物館の門をはいると、ユーカリの巨木が通せんぼする。これをすぎると、みごとなファサードがあらわれる。砂漠に埋もれていた8世紀の宮殿、カスル・アルヘイルの城門の再現だ。欠落部分を白漆喰で補ってあるが、左右に円塔のある城門の姿は、往時を彷彿させる。

館内には、ドゥラ・エウロボスのシナゴーグがある。2世紀のユダヤ教会。壁に旧約聖書の場面が描かれている。シナゴーグというものをはじめて見た。

シリア各地の出土品。動物・神々・人物などの細密な石彫。金やラピスラズリなどの貴金属作品。ウガリットからでたアルファベットの原型の楔形文字。歴史の錯綜と重厚に圧倒されて、博物館をでた。

ヨルダン、レバノン、シリア。アフリカで誕生した人類が、この地峡をわたって、アジアへ、ヨーロッパへとひろがっていった。この近辺で生まれた農耕・牧畜・鉄器・都市・文字・法律・商業・海運などの文明文化が、渦を巻いてここを通り、世界へひろがった。

ユダヤ・キリスト・イスラムの3つの1神教が、ここで生まれた。ギルガメシュからはじまるさまざまな人間像の多彩さ。粘土板から旧約聖書へとつづく物語と歴史。

答えのでない問いで頭をいっぱいにして、真夜中、トルコにむかう。
 

『3つの大陸のつなぎ目を歩く』 つぎは13日目。トルコの首都イスタンブールへ。

 

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