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中東紀行 3つの大陸のつなぎ目を歩く 2000年5月

11日目

 

5月20日◆土曜日

パルミラ

 

写真 墓の谷

墓域はパルミラの西の街はずれにある。北にアラブ砦が見える。砂の谷の朝の風景は、清潔な空しさ。
 
 
 
 

エラベールの墓

地上4階建て、200以上の遺体が収容できる。さすが、貴族の墓といいたいところだが…。
 
 

3人兄弟の墓

地下にもぐると、死者の生前の姿を刻んだ彫刻が。その姿にそえられたオリーブの葉は、永遠の生のシンボルだそうだ。

ハマへPARMYRAマルーラ村へ

墓の谷

遺跡にでかけるまえ、ホテルの玄関フロアで、カミさんとフランス人女性が、話をしていた。英語もフランス語もできないはずのカミさんがだ。2人とも腰をかがめている。2人のあいだにネコがいる。

もどってきて、カミさんは、「あのネコ、4匹も子どもを産んだんだって」という。どうやらネコ語で話していたらしい。このホテルには、ネコがたくさんいる。

墓の谷へ。夕べも今朝も、ホテルの窓から、墓の谷が見えた。砂のなだらかな起伏。どうやら、ぼくは、この谷の淡々とした無機質を好きになりはじめている。

砂利道をゆく。静かな谷に朝陽がさしこみ、朝空にアラブ城砦が浮かんでいる。

道すじにそって、ときに石の堆積がある。塔形の墓がくずれたものらしい。やがて、抜けるような空へ高々とそびえる、4角柱の塔のしたに達した。

この墓貸します

高さ27m。紀元103年に建てられた、「エラベールの墓」。形にくずれがない。パルミラ最大だという。

棺をおさめる棚が、ロッカーみたいにならんでいる。両がわに、6段×5列。4階建てだから、全体で200ちょっとの棺を収納できたようだ。いわば団地墓。

入口に、「手もと不如意につき、空きスペースお貸しします」という文字が刻んであるそうだ。エラベール家はパルミラの名門貴族。ほんとかな、と疑う。後世の退屈男の落書きじゃないのかな。

中央には、この一家の家長の、家族をまじえた生前の1シーンが、大きな石彫になって飾られている。それぞれの棺の外から見える1面には、死者の似顔彫刻がはめこまれている。ここまで見栄をはっておいて、人間、落ちぶれると賃貸しに豹変できるものなのか。

屋上にのぼる。アラブ城砦が見える。すそをひく山のいただきに、古城をのせた風景はうつくしい。

2世紀につくられた「3人兄弟の地下墳墓」にもぐる。ここも石彫がすばらしい。碑文に、「3人兄弟がこの墓をつくった」とあるらしい。兄弟いっしょに墓をつくるとは、なんと仲のいいことか。

数年まえ、この墓の谷で、とつぜんトラックが砂のなかに消えたことがある。そこは未発見の地下墳墓だった。先祖の霊が子孫をよびこんだという、もっぱらの噂だったらしい。家族愛にあふれた先祖をもつのも、考えものだ。

それにしても、パルミラの住人は純粋のローマ人ではなかったはず。ローマ文化のもとでは、セム系の人々も造形技術がすぐれていたのだろうか。

ベル神殿の犠牲の動物が通った路

パルミラ博物館にはいり、彫像や器物やモザイクなどの出土品を見る。そのあと、ベル神殿の広大な神域にはいる。東西210m×南北205m。

西に入口がある。そのひだりわきに、動物用の地下通路がある。ここから犠牲用の動物が運びこまれたという。動物が通った道へ石灰岩がくずれて、白い反射をあげている。どこかで動物の悲鳴が聞こえたような気になる。

動物たちは入口をはいると、まず清浄槽で清められ、つぎに大石の犠牲壇にのせられたという。

中央に大きな主殿がある。かつては、太陽神と月神をしたがえて、セム人たちの主神ベルがまつられていた。ベルは、バールベックのバール神とおなじだとも、バビロニアの最高守護神ベルだともいわれる。動物たちは、この神にささげられた。

ナツメヤシの都

主殿の天井に、星座と惑星神の彫刻がのこっている。壁には、花々の彫刻がある。シルクロードをたどるうちに、さまざまに変容した、花のデザインの原型だ。

かつては390本あったという、ベル神殿の円柱のむこうに、砂漠にむかってナツメヤシの林がひろがっている。

パルミラの名は、ギリシア語のパルマ(ナツメヤシ)に由来する。もともとの名前タドモルも、セム語のナツメヤシのことだ。

ナツメヤシの都パルミラ。石の街は廃墟となったが、ナツメヤシの林だけは、いまも繁っている。

列柱道路を歩く

昼食をはさんで、午後は列柱道路から歩きはじめる。

列柱道路は、ベル神殿からアラブ城塞まで、全長1.2km。直線ではなく、とちゅうで2か所、わずかに折れまがっている。その最初のポイントにローマ記念門がある。つぎのポイントにテトラピロン(4面門)がある。

道路のみぎがわには、ローマ式浴場がある。ひだりがわには、ナボー神殿・野外劇場・アゴラなどがある。ナボー神は、セム族の知恵の神様。エベラール塔墓を建てたエベラール家が寄進したものだとか。アゴラ(広場)では、商取引きや政治演説がおこなわれた。アゴラのそばには、税関、元老院があったらしい。

さすがに砂漠のまんなか。陽射しが強い。その陽射しを白く反射した柱列のむこうに、アラブ城砦が見える。心にのこる、廃墟の風景だ。

 

アラブ城砦

十字軍にそなえてつくられた砦跡に、17世紀、オスマン・トルコが築いた城郭。夕陽の名所だ。
 

写真 パルミラ全景

アラブ城砦から眺めたペトラの全景。緑はナツメヤシの林。そのてまえの白っぽいのが遺跡。往時の広大さがしのばれる。

アラブ城砦で夕陽を見る

夕刻、そのアラブ城砦にのぼった。おんぼろ小型バスでのぼる。ガラスはひび割れ、ドアは閉まらない。汚れをかくすために塗りたくった原色の塗料が、はげ落ちてまだらになっている。笑ってしまうほど、派手陽気なガラクタぶりだ。山の高さは150mだが、このバスでのぼるのだから、けっこう迫力がある。

頂上からの眺めは、すばらしい。パルミラの全域が見える。ほとんどが砂原だ。そのむこうにナツメヤシの林がひろがっている。のこっている建物が、ポツンポツンという感じで、ちらばっている。

106年、南のペトラがローマに征服されてから、パルミラは砂漠交易の中心として最盛期を迎えた。そのころ、ペトラは現在のこっている遺跡の3倍の規模だったという。しかし、女王ゼノビアが完全独立をめざして兵を挙げ、272年、ローマの大群に滅ぼされた。

遺跡のひだりてに、アンツーカーを敷きつめたような、赤い楕円形の空き地が見える。ラクダの競争場だそうだ。そこに3角形の山の影が落ちている。夕闇が迫ってきた。

まず、墓の谷が紫の暮色につつまれる。羊の群れが斜面をおりて、家路を急ぐのが黒い点々に見える。遺跡全体がハチミツ色にとろけていく。7時20分、遠い山並みに陽が落ちた。くずれた石灰岩の古城が、薄闇のなかで黒くなった。

 

ベドウィンのテントで

運転士のアブワッドに引っぱりだされて、ぼくたちも踊った。うしろむきの2人の男が被っているのが、コフィアとよばれる男用の頭飾りだ。

ベドウィンのテントで踊る

夕食後、ベドウィンのテントにでかけた。酒を飲みながら、民族舞踊を見る、オプションだ。1人7ドル。参加者は、ぼくたち夫婦2人だけだ。ガイド、バスの運転士、添乗員をふくめた5人が、大型バスででかけた。

テントは、ホテルのまえの丘のうえにある。またたくまに到着。

テントのなかは、小学校の教室を2つあわせたくらいの大きさだ。粗めの繊維のテントの天井までは、2.5mほどある。直線状にならなんだ4〜5本の柱が、天井をささえている。まわりの壁は、大胆なデザインをほどこした、高さ1.8mぐらいのヨシズのようなものでかこってある。

床には、色とりどりのじゅうたんが10数枚、敷きつめられている。壁ぎわにぐるりとマットが敷かれ、肘掛け用のラクダの鞍やクッションがおいてある。靴のままの足をまえに放りだして坐ると、飲み物がでた。

アラックを注文した。強い酒だ。じゅうたんにおかれたコップに、透明の酒が注がれる。これに水を加えると白く濁る。アッバース朝の飲んだくれ詩人アブー・ヌワースはうたう。

「酒を飲み給え。水をまぜると、白い泡が立つ熟成した黄色の酒を」(アブー・ヌワース/塙治夫編訳『アラブ飲酒詩選』/岩波文庫)
「それはボスラとイラクの間の葡萄で作られる」(同上)

まさにパルミラで飲むにふさわしい酒。1本弦のバイオリン、バーバーが奏でられ、3人の女、6人の男が踊る。

はじめ客はぼくら2人だったので、商売になるのかと心配したが、ドイツ人・フランス人・アメリカ人の客でいっぱいになってきた。運転士のアブワッドに引っぱりだされて、踊った。彼も大きな腹をゆすって踊っている。

陶然となったところで、退散した。テントの主に送られて、月の光のなかにでた。長身にすらりと着こなした、アラブ服の白いシルクに、月光が宿っている。十六夜。月がわずかに欠けはじめている。
 

『3つの大陸のつなぎ目を歩く』 つぎは12日目。マルーラ村からダマスカスへ。

 

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