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中東紀行 3つの大陸のつなぎ目を歩く 2000年5月

10日目

 

5月19日◆金曜日

アレッポ→ハマ→パルミラ

◆サラディーンの息子が守った城

きょうはイスラムの安息日。街はひっそりしている。きのうスークからの帰りに通ったときは、あんなに混雑していたアレッポ城の入口が、閑散としている。

アレッポ城は、まわりから50mも高い楕円形の台地上に築かれている。周囲2.5km。まわりに濠がある。深さ8m。丘の斜面には、石が張りめぐらされていたという。角度48度。いまは石はなく、登ると土が崩れて、ズルズルすべり落ちそうだ。

この丘のうえには、もとはハダテ神殿が建っていたという。ローマ人も、この地元の神を尊重した。やがてイスラムの要塞となる。サラディーンの息子ガズィーが、濠をめぐらせ、堅固な城とした。十字軍をはねかえした守りの堅い城の外観は、皮肉なことに十字軍の砦と雰囲気が似ている。

城門をはいると、つぎつぎに鉄の扉5枚が、ゆくてをはばむ。柱の上部に、石の彫像がある。笑うライオン、泣くライオン。どちらが泣いて、どちらが笑っているのか、区別がつかない。

モハメッドは、アラブ世界にいつまでものこるギリシア・ローマの石の遺跡に、西からの文明支配の重圧を見たのだろうか。ことにリアルな彫像に、深い嫌悪をつのらせたのだろうか。

偶像を排し具象を排した結果の洗練なのか。要所をひきしめるアラブのデザインには、ほれぼれする。トルコ式浴場の天井のデザインもおもしろい。大広間の床のモザイク模様も圧巻だ。

アレッポ城内に通じる地下道があるというレストランで、昼食をとった。フリーケを食べる。小さく砕いたナッツとチキンがのった混ぜゴハン。これにヨーグルトをかけて食べる。ベドウィン料理の1つだ。

 

アレッポ国立博物館

玄関におかれた3対の神像。白目に黒目の表現がユニークだ。

◆アレッポ国立博物館の目ん玉

シリア第2の大都市アレッポは、トルコに近いだけに、トルコ系の人々が多い。キリスト教徒のアルメニア人も多い。あのサラディーンはクルド人だったそうだ。

アレッポは、小アジアとメソポタミアとのむすび目にある。東西から圧力と影響を受けてきた。西からは、ヒッタイト・ギリシア・ローマ・東ローマ・トルコ。東からは、ミタンニ・バビロニア・アッシリア・ペルシア・アラビア・蒙古。

紀元前、ここにはヤムカド国、ハルバ国があった。
それだけに、アレッポ国立博物館の展示物は多彩だ。

博物館の入口に、トルコ国境に近いテル・ハラフで発掘されたユニークな像がある。それぞれ動物の背にのった神々3体。紀元前9世紀ごろのものという。動物も神も、大きな白目に、まんまるの黒目。同じモチーフの像が館内にもある。館内のものは、白目が切れ長。いずれも異国を思わせる。

巨岩に彫られたレリーフに目をうばわれた。アッシリアへ貢物を運ぶ、彫りの深い男たちの顔には濃いヒゲがある。アレッポ城の稚拙なライオン像を刻んだセム族が、かつては、こんなにリアルで細密な描写をしたなんて。

エブラからでた、焦げた粘土板や木材もある。

あまりにたくさんのものをいっぺんに見たので、最後の部分はダマスカスの博物館の展示品と、記憶がごっちゃになっているかもしれない。

 

写真 ハマの水車

大きいものは直径20m。
 
 
 
 
 
 

ビーハイブ

蜂の巣に似た、泥でつくられたツボ型の住居。けっこう大きい。高さも、直径も、4m前後ぐらい。現代風に手が加えられた本格的な住居もある。

アレッポへHAMAパルミラへ

黒いハマの水車

きのうきた道を、ハマ、ホムスとたどってパルミラへ。

ハマで水車を見た。 オロンテス川の水を高地へ流す装置だ。黒い大きな木の水車が、水をはね散らかしながら、ゆっくり回っていた。

ホムスの街中の信号で、バスがとまった。ひだりてにモスクがある。モスクは19世紀はじめのものだが、シリア地方を征服した、マホメッドの弟子ハーリド・イブン・アルワリドの墓が、ここにあるという。

それにしても、信号にひっかるとは、めずらしい。

ここらは世界ではじめて、粘土板で法典を編んだ土地柄。最古と思われていたハンムラビ法典より、さらに古い粘土板の法典も発見されている。さらに、モーゼの十戒。ユダヤ教やイスラム教の厳しい戒律。規則には、こと欠かない。

この旅で、事故を3つほど見た。交通規則が、どうなっているのか、興味深い。

砂漠を走る。油送管があることを示す、黄色やオレンジや青の標識が、平行して延々とつづく。

はるかに素焼きのツボのようなものが点々と見えた。泥でつくったビーハイブ(蜂の巣)とよばれる砂漠の民の住居だ。しかし、毎年、砂漠の乾燥化はすすみ、彼らは北方へ住居を移しているという。

ゆくての左右に、砂の山脈が低く見えてきた。それが合するあたりに、パルミラがある。
 

『3つの大陸のつなぎ目を歩く』 つぎは11日目。終日、砂漠のオアシスの街パルミラ。

 

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