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中東紀行 3つの大陸のつなぎ目を歩く 2000年5月

5日目

 

5月14日◆日曜日

アンマン→ジェラシュ→ボスラ→ダマスカス

クセイル・アムラへJERASHボスラへ

◆ローマ都市ジェラシュ

アンマン北郊、難民の町を通る。ヨルダンの人口のうち30%が、パレスチナからの難民だそうだ。

アンマンから北へ、ヤボク川を越えて、バスで1時間。旧約聖書にもでてくるギレアデ山地にはいる。このゆたかな山地には、紀元前10世紀には、すでに人が住んでいたという。

10時、ジェラシュについた。ヘレニズム時代から名が知らた、ギレアデを代表する古代都市の1つ。古名はゲラサ(黄金の川)。

アンマン(大いなる川)にしても、マダバ(水の多い流れ)にしても、このあたりの都市の名は、川や水にちなんだものが多い。いかに水が大切だったか。

門前町のような通りをぬけると、凱旋門がある。門をはいると、ひだりに収容人員1万人の大競技場がある。

まっすぐの道を、さらに200m、ようやく南門に達する。この道を、アラブ服を身にまとった風采のいい男が2人、手をつないでゆったりと話しながら、行ったり来たりしていた。この旅では、男同士が手をつないでいるのを、なんども見かけた。

南門をはいると、イオニア式の円柱にかこまれた、楕円形の広場フォーラムがある。80m×90m。広場を見おろして、ゼウス神殿がある。そのおくに、南劇場がある。

フォーラムから北へ、列柱道路(カルド)がのびている。ひだりにニンファエウム(泉)・アルテミス神殿・北劇場がつづき、みぎに西浴場・テトラピロン(4面門)がつづく。街がつきたところが北門だ。南門から北門まで、1kmほどある。

いかにもローマ的な要素がそろっている。キリスト教によって余命をたもったローマらしく、これらの建物群に、いくつもの教会がつけ加えられている。

ジェラシュについてではないが、砂漠地帯に散在するローマ建築について、ロレンスはいう。

「こうした不釣合いの建物を造ったのは造営者の頭を疑いたくなる」(前出『知恵の七柱』第2巻第108章)

いかにも強圧的なローマ遺跡にたいする反感は、ぼくにもある。ただし、はじめて見た楕円形の広場フォーラムは、印象的だった。

アルテミス神殿では、ガイドが石柱の根もとにコインをはさんで、柱の揺れでコインが動くのを見せてくれた。石柱と柱石の接合点の遊びが、揺れを吸収する耐震構造になっているのだそうだ。石の文化にも遊びの発想があることに、新鮮な思いがした。

◆バスにのったまま国境越え

ヨルダンからシリアへ。

空を飛んで、国境を越えたことはある。しかし、陸路をバスにのって国境を越えるのは、はじめてだ。

ヨルダンがわの国境の町ラムサ。下校する小学生たちが、道にあふれている。きょうは日曜日なのにと思ったら、イスラムは金曜日が安息日。小学校は金土が休みなのだそうだ。

シリアがわの国境の町ダラー。ひろがるオリーブ畑や小麦畑を見わたす目に、異様なものが飛びこんできた。トーチカとミサイル。緊迫のゴラン高原は、ここから西へわずか数10kmしか離れていない。

シリアのガイドNさん(男性)が、花束をもってのりこんできた。きょうは母の日。女性全員にカーネーションをくばる。カミさんは上機嫌だ。

ジェラシュへBOSRAアンジャールへ

◆重厚な黒の遺跡ボスラ

東へ1時間ばかり走って、ボスラへ。

西に、アンチ・レバノン山脈。東に、アラブ山(1,800m)。ボスラは、この2つの山にはさまれた、ハウラン地帯とよばれる、肥沃な平原台地にある。

火山性のアラブ山から切りだされた、玄武岩でつくられた遺跡。黒い。あちこちで目にしてきた、石灰岩でつくられた白い遺跡群とは、がらりと印象がちがう。この重厚な黒の遺跡は、世界遺産になっている。

紀元前70年、南の首都ペトラにたいして、ここはナバテヤ人の北の首都となった。そのあと、ローマ皇帝フィリップス・アラブス(この近くのシャハバの出身。属州出のローマ皇帝は、けっこう多い)がローマ風の都市に変えたという。しかし、どこかアラブ風の個性がのこっていて、おもしろい。

深さ8mの広大な貯水池は、いまでもつかわれている。列柱道路の両端には、ナバテヤ人の門・風の門がのこっている。道の両がわには、ニンファエウム・市場・記念門・ローマ式浴場などの跡がある。

なかでも、切れ味の鋭い造形をみせてくれるのが、黒いローマ劇場だ。「世界中でいちばん完璧な形でのこっているローマ劇場」だといわれている。

12世紀、アイユーブ朝のイスラム兵士が、この劇場を要塞化して立てこもり、十字軍を寄せつけなかった。要塞化されたのは、入場口や待合室などのある外構部分。6,000人を収容する客席と舞台は、人が立ち入りできぬように閉鎖された。のちに砂がこれを埋め、いわば埋蔵されて無傷のままのこったのだという。

ダマスカスに泊まる。あすはレバノンにはいる。
 

『3つの大陸のつなぎ目を歩く』 つぎは6日目。レバノンへ。アンジャールとバールベック。

 

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