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中東紀行 3つの大陸のつなぎ目を歩く 2000年5月

4日目

 

5月13日◆土曜日

ペトラ→マダバ→ネボ山→クセイル・アムラ→アンマン

◆バラ色に輝くエル・カズネ

朝、ホテルを発つまえ、ペトラの風景を見おさめしようと庭にでた。山と谷の大パノラマに朝陽があたっている。ひだりて、南西の方角の高い山の頂上に、白い建物が見える。ホル山頂(1,336m)のモスク。みぎてに視線をうつして、ひらめいた。ここからは見えないが、みぎにワディ・ムーサの村があるはず。とすると、あのあたりに…。

地形からいって、あそこがシークの入口らしいと、見当をつけた。少しひだりへ視線をもどすと、あった! バラ色の4角い輝き! あれはエル・カズネにちがいない。

ぼくの推定に疑いをもったカミさんが、いつのまにか消えて、ホテルの従業員をつれてきた。
指さして、「エル・カズネ?」と、彼にたずねると、うなづいて、「Yes,treasure ムニャムニャ」という答え。

やっぱり、そうだったのだ。ガイド・ブックにも、「11時ごろまで、宝物殿に日光があたり、バラ色の岩肌が光に映えて美しい」とでている。

あぶない、あぶない。このホテルに泊まった意味を、去る直前になって、ようやく知ることができた。この喜びを、ロビーにいた同行の人たちに、おすそ分けした。彼らも、崖っぷちまで駆けていった。

しかし、気づかずに過ぎてもムリはなかったのだ。あれだけのペトラが、13世紀以降は、歴史から消えていた。砂に埋もれた遺跡が、スイスの探検家によって、ふたたび日の目を見たのは、19世紀になってからだった。

 

アラブ料理

メッツェとよばれる前菜がおいしい。ヒヨコ豆のペースト、ゴマのペースト、ヨーグルト味、チーズ味など、たくさんの調味料の皿がならぶ。ホブスという薄いアラブ・パンに、生野菜をはさみ、これをぬって食べる。
肉は、マトン・ラムなど羊肉が中心。これにチキンが加わる。牛肉はめったにでてこない。もちろんブタはタブー。
 
 
 
 
 
 
 
 
写真
 
聖ジョージ教会
古代パレスチナを描いたモザイク地図が、床に描かれていいる。

ペトラへMADABAネボ山へ

◆王の道をマダバへ

マダバへむかって、王の道を走る。

王の道は、デザート・ハイウェイの西30kmを、南北に平行している。古代からの道だ。現代の道は砂漠を走り、古代の道はヨルダン高地を走っている。香料をはこぶ商人、ローマの軍団、十字軍、エルサレムやメッカへの巡礼が通った。

マダバが近くなると、道の両わきが緑ゆたかな並木にかわった。まわりの風景も一変した。赤・黄・緑に染めわけられた、ゆるやかな起伏の田園地帯。北海道の富良野あたりを思わせる風景だ。旧約聖書では、マダバはメデバ(水の多い流れ)とよばれている。標高800m。

シリア・レバノン・ヨルダンを南北につらぬいて、レバノン山脈、アンチ・レバノン山脈、シャラー山地が縦走している。これらの山々は、地中海からの水分をふくんだ西風を受けとめ、この地に適度な湿度と気温もたらしてきた。マダバのあたりは、古くから農業の発達した、いわゆる「肥沃な三日月地帯」の南端にあたる。

昼の食事への期待が、にわかに高まってきた。

古い街並のなか、中庭のある古いレストランの2階にあがる。屋上というより、やや物干し台といった風情だが、風通しのいい場所にテーブルがならべてある。目のまえのポプラが葉裏を見せて、涼しいそよ風を送ってくる。

本格的なアラブ料理を食べた。前菜メッツェ。メインはチキン。デザートにスイカがでた。満足した。

◆セント・ジョージ教会のモザイク地図

食後、歩いて近くの教会へ。6世紀に建てられた、ギリシア正教のセント・ジョージ教会。この教会の床には、最古の古代パレスチナ地図といわれる、モザイク地図がのこされている。20m×8m。6世紀のエルサレムを中心に、エジプトまで描かれている。

教会からのもどり道、店さきに坐っていた男から、たくさんの実のついた豆の茎を、まるごと1本カミさんがもらった。アラブ人は気さくだ。街を歩いていると、こんなふうに、ひょいと自分の食べているものをくれたりする。

男は生のまま、実を口にほうりこんでいる。グリーン・ホンモス(ヒヨコ豆)。まねして食べてみたら、青臭いけれど新鮮な甘味が、口中にひろがった。枝豆を生でかじった味に似ている。

ホンモスという料理は、この豆の実の粉をペースト状にし、オリーブ油を加えたもの。アラブ料理には、欠かせない1品だ。

マダバへMt. NEBOクセイル・アムラへ

◆モーゼ終焉の地ネボ山

マダバから9km。ネボ山にのぼる。モーゼ終焉の地だ。

モーゼ記念教会という、現役の教会が建っている。創建は3〜4世紀。ここにもビザンチン時代のモザイク画がのこっている。

崖っぷちに立つと、はるかに死海とヨルダン川とエリコの街が見える。

「この日にヱホバ、モーセに告げて言給はく 汝ヱリコに對するモアブの地のアバリム山に登りてネボ山にいたり我がイスラエルの子孫にあたえて産業となさしむるカナンの地を觀わたせよ」(旧約聖書申命記32章48)

モーゼ自身は、約束のカナンの地にはゆくことができず、ここで死をむかえた。

北王国・南王国の時代、ソロモンやヘロデの時代、ユダヤ人はカナンに住んだ。しかし、彼らの大半は、その歴史の大半を、デアスポラ(流浪の民)として世界をさまようこととなる。

「其時にカナン人其地に住めり 茲にヱホバ、アブラムに顯現れて我汝の苗裔に此地を與へんといひ給へり」(旧約聖書創世記12章6)

ようやく20世紀にはいって、3,000年もまえに成立した旧約聖書のことばが実現する。1948年5月14日、イスラエル建国。そして、そのときにそこに住んでいたパレスチナ人は、難民となってヨルダン・レバノン・シリアにあふれだした。あしたが、イスラエルの建国記念日。

この地の争いの根源は深い。

 

写真
 クセイル・アムラ
天井や壁面に、王侯貴族の図やら、狩りの図やら、裸婦の図やら、多彩な場面が美しく展開している。
 
 
 

ラクダ

T・E・ロレンスによれば、「資産のあるアラブ人は、牝ラクダ以外には乗らない」そうだ。牡ラクダは粗暴らしい。
アラブのラクダは、2こぶラクダ。トゲのある草でも食べ、3日間水を飲まなくても平気だ。砂を防ぐためマツゲが長く、長い脚で砂のうえをものすごいスピードで走ることができる。
ふつう1日50マイル(約80km)、いざとなれば、24時間に110マイル(約177km)すすむことができる。
「砂漠の舟」といわれたラクダだが、いまはデザート・ハイウェイを自動車が疾走する時代。めっきりその数は減ったという。
1回の出産で、1頭産まれる。いま、ふつうのラクダ1頭、1,000ドル。白ラクダ1頭5,000ドル。

ネボ山へQASR AMRAジェラシュへ

◆クセイル・アムラは快楽の館?

いったんアンマンの街にはいり、こんどは東へ。砂漠を30分ほど走ると、ひだりてに泥で固めたような建物があらわれた。クセイル・アムラ。8世紀、ウマイア朝の建築。世界遺産。

「クサイル・エル・アムラに着いた。これは詩人の保護で有名な牧人王ハリスの小狩猟館である。それは葉摺れの音も爽やかな鬱然とした樹木を背景にくっきりと美しく見えた。(略)われわれは壁に見える薄れた壁画をいろいろと解き明かしたりして、他愛もない大笑いに時を過ごした」(前出『知恵の七柱』第2巻第105章)。

ロレンスの見た樹木は、見あたらない。あれから80数年、砂漠化がすすんでいる。しかし、壁や天井のフレスコ画はのこっている。

小ぢんまりした建物ながら、温浴・冷浴・サウナなどの浴室、寝室がある。そして、壁の裸婦像。どうやらここは、カリフが狩猟をしたあと、美女たちと戯れた、快楽の館らしい。若いロレンスたちが大笑いしたわけだ。彼よりかなり年をくってしまった身としては、高貴な血統を絶やさぬための励みに、微苦笑がわく…。

第1次世界大戦当時、メッカのカリフ・フセインの3男ファイサルに、ロレンスは肩入れしていた。のちにファイサルはイラク王となったが、この王統は政変によって絶えた。ロレンスが好意をもたなかった2男アブドゥッラーはヨルダン王となり、いまも王統がつづいている。ヨルダンの大都市では、去年亡くなった前国王と、息子の現国王の大きな写真が、いたるところにに貼りだしてある。

アンマンへの帰り道、ひだりての砂漠のなかに、クセイル・ハラナの堅固な4角の城塞を見た。クセイル・アムラとおなじ、ウマイヤ朝の宮殿跡。

映画『アラビアのロレンス』に、こんなシーンがある。ウマイヤ朝の後裔ファイサルが、イギリス軍将校ロレンスにむかっていう。

「ロンドンが村落だった昔、コルドバには街灯があった。---私はコルドバの花園を求める」

ウマイヤ朝は、遠くスペインまで勢力をのばしていた。フランス(当時はフランク)の宮廷は、アラブ人に教えられて、はじめてテーブル・マナーというものを知った。やがてイギリスの王やフランスの騎士たちは、十字軍を組織してイスラムを襲うようになる。
 

『3つの大陸のつなぎ目を歩く』 つぎは5日目。ジェラシュから、国境を越えて、ボスラまで。

 

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