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中東紀行 3つの大陸のつなぎ目を歩く 2000年5月

3日目

 

5月12日◆金曜日

ペトラ

 

モーゼの泉

3つのドーム屋根のある建物のなかに、泉がある。ペトラの水源でもあったという。しかし、3万人の人口を養った水源にしては、ちょっと水量が少ないようだ。
 
 
 
写真
 ダジーン・ブロックと
 オベリスク墳墓
岩にかこまれたペトラ市街地のそとに、葬送にかかわる古い遺跡がのこっている。

ワディ・ラムへPETRAマダバへ

◆馬にゆられてペトラ遺跡へ

ワディ・ムーサの村へおりていく。
村はいま、ザクロの花ざかり。

白い石灰岩の山肌にしがみついた家々。急勾配の崖に、幅30cmほどの石のU字溝がはりめぐらされている。水源はアイン・ムーサ(モーゼの泉)。モーゼが杖で岩を叩いたら水があふれでた、という言い伝えのある泉だ。このおなじ泉の水が、導水路でペトラまでひかれ、中心部に貯えられていたという。

馬にのった男たちが、あちらからもこちらからも、急坂をおりてくる。われわれのバスとおなじ方向にいく。

ペトラ遺跡に通ずる道の出発点は、村はずれにある。遺跡へ客をはこぶ、馬の乗り場がここにある。さきほどの馬と男たちが、集まっていた。

さっそく馬の背にまたがった。カミさんの馬は白い大きな馬だ。ぼくの馬は黒くてやせている。

どうもぼくは動物にはついていない。アブミに足がとどかない。馬がやたら首をさげる。その状態でカミさんをスナップしようというのだから、あぶなっかしい。

◆馬にゆられてペトラ遺跡へ

みぎてにダジーン・ブロックという4角い岩の遺物があらわれた。ひだりてにオベリスク墳墓があらわれた。いずれもアラビア半島からやってきた古代ナバテヤ人がのこしたものだ。

ペトラはナバテヤ人がつくった都。すでにペトラの領域にはいっている。

遺物があるたびに馬をとめるものだから、おしゃべりなオッサン馬子に、1人2ドルのところを、けっきょく3ドルずつ払わされてしまった。

◆シークの両側につづく導水路

岩山にはばまれて馬をおりた。岩に裂け目がある。この裂け目のおくにペトラがある。ちなみにペトラとは、ギリシア語で「岩」のことだそうだ。

入口のてまえに、ダム跡がある。アイン・ムーサから流れてきた水を貯え、水量を調節してペトラ市内に給水する役割をはたしていたという。

岩山の裂け目にはいる。裂け目は、岩山が水に侵食されてできたものだ。左右の絶壁の高さ100m。その底にシークとよばれる道がつづいている。中心部まで、幅5〜10m、長さ約1.5km。観光客をはこぶ馬車が、余裕ですれちがうことができる。ゆるやかな下り坂だ。

それにしても、水の流れだけで、こんなにみごとな、平らな緩斜面ができるものだろうか。削ったり埋めたりして、段差をなくしたのかもしれない。少なくとも、ところどころ幅は広げたのだろう。

この道路の両サイドを、かつては水が流れていたという。左右の岩壁のすそが岩棚となり、道路面から高さ50cm〜1m、幅80cmほどせりだしている。岩棚の上面は、幅30cm、深さ20cmほど彫りくぼめてある。

このうえに素焼きの筒をつないだ導水管をのせて、水を流したという。入口のダムで調節された適量の水が、この導水路によって市内に供給されていたのだ。

導水路を流れる水は、左が動物用、右が人間用だったとか(逆だったかな?)。この時代としては、驚くべきインフラストラクチャーだ。

ところどころ敷石がのこっている。
これはローマ時代の馬車用の舗装だそうだ。
岩壁に、ラクダのレリーフやら祭壇などが彫ってある。

◆エル・カズネから王宮墳墓群へ

距離にして約1.5km、歩いて20分。シークのおわりは、感動的だ。薄暗がりの岩の裂け目に、とつぜん赤い宮殿が浮かびあがる。

シークの出口に立ちはだかる、巨大な岩山。その岩山から削りだされ、彫りあげられたエル・カズネ(宝物殿)。左右対称の壮麗な全容が、赤い岩肌に朝陽を受けつつ、しだいに姿をあらわしてくる。

いわば高さ40mの巨大彫刻。紀元前25年、ナバテヤ王アレタス4世が建てた。

なかは3つの4角い洞窟があるだけだ。宮殿そのものも、それぞれの部屋も、なんのためにつかわれたのか、わかっていない。ただ正面に立って、ぼんやりファサードを眺めているだけで、いい気持ちになれる。

◆アウター・シーク

エル・カズネにつづく道は、空がひらける。この道をアウター・シークという。ひだりての岩山に、たくさんの墳墓が彫りこまれている。貴族の墓、金持ちの個人墓、一般市民の家族墓。

アウター・シークがつきるあたりに、ローマ劇場がある。収容人員6,000人。ローマの影響を受けて、ナバテヤ人が、岩山をくりぬいて、1世紀につくった。

劇場のみぎての岩山には、王宮墳墓群がならんでいる。おくにむかって壷型墳墓、シルク墳墓、コリント式墳墓、宮殿墳墓などと、名前がついている。

壷型墳墓にのぼってみた。なかは巨大な4角の洞窟で、大学生らしい男女が5〜6人、ハンカチ落としを楽しんでいた。羊飼いなどが、なかで煮炊きをしたとかで、洞窟は黒くすすけている。

◆ペトラの人口3万人

いよいよ街の中心部にさしかかる。幅6m、長さ150mの列柱通り。まわりに低い丘がひろがっている。ペトラの最盛期の人口は3万人。ここに神殿、宮殿、官庁、商店、市場、公共浴場が建ちならんでいたという。

列柱通りを西へいくと、道のおわりにテメノス凱旋門の残骸がある。凱旋門のむこうには、カスル・エ・ビント(ファラオの娘のための宮殿)が見える。

カスル・エ・ビントは、ナバテヤ人が石を積みあげてつくった、唯一の建物だ。高さ23mの中間部分には、木材がつかわれている。この木材が耐震の役割をはたしていたという。ヨルダンからシリアにかけては地震帯だ。ちゃんと、地震対策がおこなわれていたらしい。

カスル・エ・ビントのむこうは、高い岩山。これをのぼると、エル・ハビス(牢獄)跡、ナバテヤ人の祭壇跡がある。岩山は、十字軍の要塞としても利用されたという。のぼっている人たちを見あげながら、レストハウスで昼食。

◆岩山をのぼってエド・ディルへ

食後、遠い岩山のうえにある、エド・ディル(修道院)をめざした。

石灰岩の岩壁をえぐる、曲がりくねった狭い道。1時間かけて、800段のぼる。といって、整った石段があるわけではない。自然石の段差の数が、そのぐらいあるということらしい。かなりきつい。

観光客をのせたロバがゆく。目線が高くなって、よけい恐いだろうに、と思う。とてもロバ君に命をお預けする気にはならない。

とちゅうに、ライオンの墓というのがある。ライオンのレリーフは消えかかっている。どういう由緒のものか、聞きもらした。

ようやく坂道をのぼりきった。みぎてにエド・ディルが見える。しかし、だれもが、ひだりての岩穴にある休憩所に直行した。まず日陰で冷たいものでも飲んで、休みたいのだ。

岩穴から、エド・ディルを眺める。高さ40m、幅46m。エル・カズネより大きい。エル・カズネのような優美さはない。造作が重厚で、色が黄褐色。だから、名前が修道院なのだろう。

ここも内部はただのがらんどうだ。入口が地面から1.2mほども高く、よじのぼらないといけない。カミさんは、はいるのをパスした。

エド・ディルの正面、休憩所のうしろは低い丘になっている。ここにのぼると、北方の死海が視野にはいる

下りは30分。こんな岩山のどこで草を食べていたのか。黒い羊の1群が、鈴を鳴らして急斜面をおりてきた。

レストハウスで解散。帰りは思い思いに、もういちど見たい場所に立ちよりながら、おなじ道をもどる。もう馬にはのらない。歩きつづける。

けっきょくホテルにつくと、きょう1日のカミさんの万歩計の数字は、28,000歩を示していた。
 

『3つの大陸のつなぎ目を歩く』 つぎは4日目。王の道を通り、マダバ、ネボ山、アムラ城へ。

 

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