1988年・雑考
外国人選手の入団について
1988年の最後のシーズン、南海にはバナザードとライトの2人の外国人がいた。ライトの入団は年明けだったが、バナザードの入団はなかなか決まらず、しかも当初のサードという予定をとりやめたので内野の布陣は二転三転した。結局、ファースト・河埜(藤本博)、セカンド・バナザード、サード・若井(藤本博)、ショート・湯上谷(小川)という形に落ち着いたが、ここまでには紆余曲折があった。湯上谷はずっとセカンドに入っていたが、3月19日から急遽ショートにまわったし、河埜はセカンド、サードとたらいまわしにされた末、入団以来はじめてファーストを守ることになった。若井も当初、大学・社会人と守っていたセカンドに入ったが、途中からサードにコンバートされた。最初から予定通りだったのは、ファースト・サードで併用することになっていた藤本博ぐらいだった。この急造内野陣がチームの致命傷になってしまった。若井は慣れないサードで暴投を繰り返し(結局13失策)、これでチームは開幕ダッシュに失敗した。湯上谷も22失策、「名手」の筈のバナザードも15失策だった。
このような結果をもたらしたことを考えると、バナザードの入団が遅れたことは、かなり大きな出来事だったことになる。ここでは、いったいどのような経緯で、彼らの入団が遅れたのかを検証することにする。
1987年のシーズンを終えた時、打力不足(打率.274、9本)で守備も悪いハモンドの解雇は決定的になっていた。もう1人の外国人・デビッドも、ストライクゾーンの違いからスランプに陥り、打率.251、17本塁打という成績しか残せなかった。それでも前年に.285、25本という成績を残したことから、球団も迷ったようで、11月10日になってようやく泉谷代表が解雇の方針を公にした。
この頃、球団は長池打撃コーチを渡米させ、ヤンキースのレン・サカタとエンゼルスのマーク・ライアルに接触した。サカタは日系3世の大リーガーで、既に33歳になっていたが11年間のメジャー経験があった。とはいえ長打がなく、内野の守備固め要員だった。出場試合も1987年には19試合、1986年には17試合にとどまっていた。それでも1986年には3Aで110試合に出場し、打率.313(本塁打は2本)という成績であり、それなりの率は残すものと期待された。守備位置も2塁、3塁(1987年にはそれぞれ6、12試合出場)と南海にぴったりで、サカタとの契約は決定寸前までいった。が、長打のなさに杉浦監督が難色を示し、保留状態になった。
一方、ライアルは27歳と若く、1987年には自己最高の58試合に出場し、打率.200で5本塁打という成績をあげていた。守備位置は外野と一塁だった。後に1991年に中日に入団し、打率.285、24本という成績を残したが、南海との交渉はまとまらなかった。その原因は不明だが、杉浦がパイレーツのランディ・ミリガンという同タイプの選手を望んだからではなかったか。
ミリガンは26歳になったばかりで、大リーグ経験はほとんどなかったが、1987年には3Aで打率.326、106打点の成績で2冠王になっていた。守備位置は一塁だったが、1989年からはエンゼルスのレギュラーに定着し、成功を収めた。この年は打率.268で12本、1990年には.265で20本塁打を放った。彼に注目した南海の目は、間違っていなかったことになる。
しかし、1988年1月9日に泉谷代表が渡米し、交渉したのだが、金銭面で折り合いがつかなかった。南海に入っていれば3割30本はいけただろうに、惜しいことをしたものである。ちなみに、ミリガンの1988年の年棒は6万2500ドル(750万円)だった。一体南海は、いくらを提示したのだろうか・・。
ミリガンを逃した泉谷代表は、そのまま手ぶらで帰国するわけにもいかず、2Aジャクソンビルのジョージ・ライトと仮契約を結んだ(1月20日発表)。ライトはこの年30歳だったが、1983年にはレンジャーズで打率.276、18本塁打と活躍したことがあった。それが1984年に膝を痛め、以後は低迷していた。それでも1986年まで、大リーグで100試合以上の出場を続けており、実力のある選手には違いなかった。2Aでも打率は2割6分台だったが、南海はケガが治ったと判断し、年棒2560万円で話をまとめたのだった。ライトは強肩の外野手として、その守備も期待された。
ライトとの仮契約を終えて、泉谷代表は1月20日に帰国した。この段階でもう1人の外国人としては、保留状態のサカタの他に、タイガーズのティモンシィ・トールマンの名があがっていた。トールマンはこの年32歳で、長年一塁・外野の控えをやっていた。1987年には3Aで打率.314、15本塁打を放ち、それなりには期待できそうだった。が、メジャーでは毎年1割前後の低打率であり、確実性がないと判断したのだろう、杉浦監督は納得しなかったようである。杉浦は24日に、いい外国人が取れるなら4月、5月まで待つと語るに至った。
ライトとの正式契約に再渡米した古賀通訳には、もう1人の外国人探しも委ねられた。古賀は2月8日に帰国し、バナザードと契約を結んできたことを発表した。バナザードはこの年32歳だったが、1979年からメジャーに定着した現役のレギュラー選手だった。1985年にはインディアンズで153試合に出場し、打率.274で11本塁打、1986年には.301で17本、1987年には途中でアスレチックスに移り.250で14本という成績を残していた。1987年の年棒は63万ドル(7600万円)だったが、やや成績が下がったので据え置きが見込まれていた。南海は9600万円の年棒で迎え入れることに成功したのだった。毎年、3000万円級の外人2人でお茶を濁してきた南海にとっては、非常に思い切った行為ということになる。
ただ、バナザードの守備位置については若干の誤解があったようである。杉浦監督は当初、バナザードをサードで使うと語った。どこでも守れる名手という触れ込みに幻惑されたのだろうが、実はサードを守ったことはほとんどなかったのである。1985年にはセカンドで147試合(16失策)、ショートで1試合(0失策)、1986年にはセカンドで146試合(17失策)、1987年にはセカンドで137試合(17失策)、DHで3試合という状況だった。強肩ではあるが実はエラーが多いこともわかる。
この誤解ゆえに、呉キャンプでセカンドは湯上谷と若井が競合し、ショートは小川と森脇、ファーストは河埜と藤本博という割り振りがなされた。結局バナザードの来日に合わせ、3月20日のオープン戦から(一)藤本博(二)バナザード(三)若井(遊)湯上谷という布陣に組み替えられた。そしてその急造性ゆえに、「ザル内野」状態は続いたのである。
あり得たオーダー
以上の話を受けて、次に「あり得たパターン」に思いをめぐらしてみたい。例えば、バナザードがサードを守っていればどのような布陣になったのか、サカタが入団していればどうなったかということである。以下、パターン別に考察してみよう。
バナザード(サード)とライト
→5バナザード4湯上谷(若井)8佐々木D門田7山本(高柳)9ライト2吉田博6小川(森脇)3河埜(藤本博)
バナザードがセカンドに入るパターンと比べると、藤本博がスタメン落ちし小川(森脇)が入るのが主な違いである。藤本博の成長が遅れるという問題があるが、守備には安定感が出ることになる。バナザードは強肩で技術もあるので、サードも充分務まったと思う。もともと雑なので、エラー数はセカンドの時とあまり変わらなかったのではないか。湯上谷、小川の二遊間も、キャンプ以来コンビを組んでいたものであり、この方が連携がうまくいっただろう。また、確かに小川の打力は低いが(この年.171)、レギュラー1年目で途中で息切れした藤本博も低く(打率.201)、この1年に勝負をかけるなら小川を優先してもよかったのではないか。
サカタとライアル
→8佐々木5サカタ7ライアルD門田9山本(高柳)4河埜(若井)2吉田博3藤本博6湯上谷(小川)
これは、フロントが当初構想した布陣であり、なかなかにまとまったものである。サカタは名手であり、このパターンで最初からキャンプをやっていれば、内野のエラーは相当に減ったと考えられる。難点は、ファーストの控えが手薄なことである。藤本博の調子が悪ければ、ライアルがまわり外野に山田、山村が入ったり、河埜がまわりセカンドに若井が入ることになろうか。
ミリガンとサカタ
→8佐々木5サカタ3ミリガンD門田9山本7高柳(山村)4河埜(若井)2吉田博6湯上谷(小川)
これは、年末の段階で杉浦監督が希望していたパターンである。なかなかに重厚な打線である。難点は、藤本博に出番がなくなり、外野も手薄になること。
ミリガンとライト
→8佐々木6湯上谷(小川)3ミリガンD門田7山本(高柳)9ライト2吉田博5藤本博(若井)4河埜(若井)
ミリガン+ライトだと、手薄なところがなく非常にまとまった布陣になる。この態勢が1月中に決まり、呉キャンプに突入できていたらと思ってしまう。
ライトとトールマン
→8佐々木6湯上谷(小川)3トールマンD門田7山本(高柳)9ライト2吉田博5藤本博(若井)4河埜(若井)
トールマンの打力が不安だが、これも一応は整った布陣になる。
ライトとサカタ
→4河埜(若井)5サカタ8佐々木D門田7山本(高柳)9ライト2吉田博3藤本博6湯上谷(小川)
守備の穴が少ない布陣になる。ただ、外国人で20本以上打てる者がいないので迫力は乏しくなる。
現実には、開幕戦のオーダーは次のように組まれtた。
→8佐々木6小川4バナザードD門田9ライト7山本5若井2吉田博3藤本博
これが、湯上谷の成長がはっきりしたので小川に代わり、山本はライトの抹消中に5番に繰り上がった。サードには若井に代わって藤本博が入り、空いた一塁には河埜が入ることになった。そして5月以後は次の形で固定されることになった。
→4バナザード6湯上谷8佐々木D門田7山本(高柳)9ライト2吉田博5藤本博3河埜
これもかなりいいオーダーではある。穴吹監督の時代以後、これだけ固定された打線を組めたのも久しぶりである。ただ、どうせならこれでキャンプを過ごしてからシーズンに入りたいところだった。
高柳秀樹と石本貴昭の対戦
高柳は1986年に、近鉄のリリーフエース・石本をカモにして名を売った。7打数3安打―その3本は全て本塁打、4打点という成績だった。
この石本は酷使のせいで、翌1987年から低迷し、1989年の途中には中日に移籍する。その間の高柳は、1986年ほどの成績は残せなかったが、出場試合数は81(1987年)、88試合(1988年)と増やしていった。が、石本への神通力はなくなってしまった。
1987年の対戦は5打席で、4打数1安打、犠飛による打点1という平凡な成績に終わっている。1988年にも、8打席で7打数1安打、打点は犠飛による1点にとどまっている。
このような対戦成績の推移からすると、1986年の3本塁打は、読みが当たっての交通事故だったように思われる。
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