1986年度・雑考
青山久人の投球
1985年度に南海に移籍した青山だが、この年は1軍での登板はなかった。もともと速球派だったので、球威が落ちるとつぶしがきかなかった。それでも1986年度(シーズン途中で29歳になった)には、シンカーを覚え復活登板を果たした。新聞を見ていくと、この年の青山はわりとよい働きをしていたように思えた。が、最終的な防御率を確認すると、6.75という意外に悪い数字になっている。一体どこでどう点をとられたのか、チームにどの程度貢献したのか、詳しく調べてみた。
青山の登板一覧
| 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | |||
| 12日 | 5回8安打4責 | 1日 | 1.1回1安0責 | 3日 | 1.1回1安0責 | 登板なし |
| 17日 | 3.1回3安打1責 | 2日 | 1回1安0責 | 21日 | 0回2安0責 | |
| 20日 | 1.1回0安0責 | 9日 | 0.2回1安1責 | 28日 | 0.2回0安0責 | |
| 23日 | 0.1回1安0責 | 10日 | 1回0安0責 | |||
| 27日 | 2.1回1安1責 | 11日 | 0.1回4安3責 | |||
| 8月 | 9月 | 10月 | ||||
| 29日 | 1.2回0安0責 | 3日 | 0.1回0安0責 | 5日 | 0回0安0責 | |
| 31日 | 0.1回0安0責 | 10日 | 0.2回1安1責 | 14日 | 0.2回6安5責 | |
| 27日 | 0.2回2安2責 | |||||
| 30日 | 1回1安0責 |
4月12日の初登板は近鉄戦だった。敗戦処理で5回から9回まで長々とを投げたが4点をとられた。しかし17日の阪急戦は、同点(?)で登板し3回1/3を1点に抑える好投をした。味方打線が終盤に逆転し、この試合は勝ちになった(勝利投手は西川)。そしてこの後も、20日、23日、27日、5月1日、2日と好投をした。そのほとんどは敗戦処理的なものだったが、5月1日の西武戦は、今でいえばH(ホールド)がつく試合だった。これで認められたのか、5月9日の阪急戦では勝っている場面で登板した。が、石嶺に逆転弾を浴びてしまった。それでも10日(敗戦処理)に好投し、これで16.1回を投げて自責点7、防御率3.86という数字になった。が、11日の阪急戦で打ち込まれ、これでしばらく登板機会がなくなった。この後、6月3日のロッテ戦に23日ぶりに登板し、同点のまま竹口に繋ぐ好投を見せた(試合は結局負け)。が、21日の近鉄戦では1死もとれないまま2安打1四球を与えてしまった。28日の日ハム戦では好投したが、ここで再調整となってファーム落ちした。
ファームでは10試合に登板、26回1/3を投げて2勝0敗、防御率1.37と活躍した。被安打は15、22の三振(9イニングス平均で7.5)と、ファームのレベルを超えていることをアピールした。
その青山が再び1軍で投げたのは、2ヶ月が経った8月29日のことだった。この日と31日(どちらも西武戦)に敗戦処理ながら好投し、9月3日の日ハム戦には同点の場面で登板し、ブリューワを仕留めた(試合は結局引き分け)。10日の同カードでは1点を失ったが、27日のロッテ戦にも同点の場面で登板した。しかし佐藤健一に3ラン、古川にソロを浴びてしまった(負けは西川についた)。10月5日の西武戦では、先発の西川が打球を受けたので2対1でリードしている場面で急遽登板した。秋山に四球を与えたが、竹口、山内和らが後続を絶った(結局3対2で勝ち、勝利投手は山内和)。ここまでの青山は防御率5.01だったが、最後に登板した14日のロッテ戦で打ち込まれた。2回途中で山内和をKOしたロッテ打線を止めることができず、2/3回を投げて自責点5と崩れた。
こうしてみると、4月17日、5月1日、9月3日の試合では、勝ちに貢献できたといえそうである。結局は負けたが、6月3日の試合にも貢献できたというべきだろう。これに対して、5月9日、9月27日には、負けは前の投手についたが、青山が試合を壊してしまったというべきである。
余談になるが、翌1987年の選手データによると、青山の61キロという体重は球界最軽量である。中日時代に「青鉛筆」という渾名が付いていた程の細身だった。その体で毎日ブルペンで投げ込むのは大変だったろう。
中条善伸の投球
中条も青山と同様、1985年のシーズンから南海に移籍した。1軍の左腕投手は竹口だけだったので期待されたが、1年目は肩の状態が悪く23試合、17回1/3の登板にとどまった。状態がよくなった1986年には、37試合に登板した。37試合で41回を投げ、47安打、2本塁打、18四球(死球0)、20三振で防御率は3.07という数字を残した。そこそこに活躍したといえようが、それにしては0勝0敗1Sと、勝敗が全くついていないのが不思議である。どのようなケースでどのように投げていたのか、具体的に見て考えてみよう。
まず、このシーズンの初登板は4月6日の西武戦だった。4点差がついた敗戦処理での登板である。この試合、1回を投げて3安打を食らい、1点を失った。2試合目は8日の阪急戦で、0対5からの登板だった。2回2/3を無失点に切り抜けるうち、味方が1点差まで追い上げ、最後は5対5の引き分けになった。2日後には、リードされてのワンポイントでの登板だったが、南牟礼に四球を出した。13日の近鉄戦でも3点リードされた場面で登板し、2回を無安打無失点に切り抜けた。味方打線は9回に反撃したが、あと1点及ばなかった。16日の阪急戦では、2点リードされた場面で登板し、飯塚を三振に仕留めた。この試合も味方が9回に反撃したが、あと1点及ばなかった。ここまで、6回を投げて自責点1という投球内容である。これを評価されてか、翌17日の阪急戦では先発登板を果たした。しかし2回2/3で3安打2四球であっさり降板した。それでも自責点は1であり、終盤の逆転で試合は勝ちとなった。
この後、20日の日ハム戦では2点リードされた場面で登板し、島田誠と高代を仕留めた。25日の同カードでは、6対1とリードしていたが、ピンチを迎えた井上を救援した。まず大宮を仕留めて8回の反撃を絶ち、9回も無失点に抑え、規定によりセーブをあげた。次いで27日の同カードには、3点のビハインドで登板し、1回を無失点で切り抜けた。これで4月は8試合、9回を投げて10安打、自責点1ということになる。
5月はまず1日の西武戦に、同点の場面で登板した。1イニングを無失点に抑え、この後の味方の勝ち越しに貢献した(勝利投手は矢野)。次いで7日のロッテ戦に、1対7の場面で登板した。4回を1安打、無失点に抑え、味方も追い上げたが、結局5対7での敗戦となった。次いで9日の阪急戦ではリードした場面で登板し、南牟礼を仕留めた。が、この直後に青山が石嶺に逆転弾を浴び、チームの勝利には繋がらなかった。翌10日の同カードには、0対4から登板、4回を自責点0(失点2)に切り抜けた。次いで15日の西武戦に、早々にKOされた藤本修の後を受けて登板した。しかし自責点2で傷口を広げる結果になった。20日の日ハム戦にも、同じように藤本修の後に登板、今度は2回1/3を無失点に切り抜けた。結局5月は、6試合で14回を投げ、14安打、自責点2という結果を残した。通算すると23回で自責点3、防御率1.17という好成績である。
6月はまず1日の西武戦に、1対5の場面で登板した。しかし秋山に本塁打を打たれ、1回で自責点2という結果に終わった。5日のロッテ戦では、4対3とリードした9回2アウトの場面で登板した。ここを抑えれば2つ目のセーブがつくところだったが、リーに四球を出してしまい。結局、加藤にマウンドを譲った(加藤は落合を抑えてセーブをあげた)。8日の近鉄戦では2点(?)のビハインドで登板、新井に打たれて加点されたが次の栗橋を抑えた。このように、6月以後の中条は調子が下降気味であり、12日の日ハム戦でも救援に失敗した。2対2で迎えた9回裏2死満塁で登板し、パットナムにサヨナラの押し出し四球を与えてしまった。それでも翌13日のロッテ戦では、リーへのワンポイントリリーフに成功した。後を受けた矢野は1点のリードを守りきった。19日の西武戦でも、1点差の7回に登板、1イニングを無失点に抑えた。しかし21日の近鉄戦では、大原に四球を与え傷口を広げてしまった。が、22日のこのカードでは、同点の8回に登板、今度は大原を仕留めた。この後矢野に繋ぎ、味方はサヨナラ勝ちを収めた。28日の日ハム戦では2回2/3を投げ、2点差を守った。が、打線は沈黙したままで勝ちには繋がらなかった。この月は5回2/3を投げて9安打、自責点3とあまり活躍できなかった。
7月はまず2日の西武戦に、3点のビハインドで登板した。そして1回を無失点に抑えた。次いで13日の阪急戦に、1点リードされている場面で登板し、1回を無失点で切り抜けた(あるいは内野ゴロなどで1点追加されたか?)。17日の日ハム戦にも1点差で登板し、パットナム1人を仕留めた。これで通算では31回を投げて自責点6であり、防御率は1.74となった。しかし29日の近鉄戦に敗戦処理で登板した時にはメロメロだった。1回を投げきるのに5安打2四球を許し自責点は6であり、防御率は3.38と悪化した。
これだけ打たれた後だったが、すぐに8月1日の阪急戦に登板した。3点のビハインドを負っていたが、2/3回を無失点に切り抜けた。さらに7日のロッテ戦にも敗戦処理で登板、2回を無失点に抑えた。さらに8日の日ハム戦にも3点のビハインドで登板し、1回を無失点に抑えた。そして10日の同カードには、1点差(?)の場面にワンポイントで登板した。久々の僅差での登板だったが、津末に四球を与えてしまった。さらに20日の日ハム戦にも、2点のビハインドの場面で投げた。1アウトをとるのに1安打1四球を許したが、失点はなかった。この後24日の阪急戦では3点差(?)で登板し、山森と藤田を抑えた。29日の西武戦では、1点差の場面で登板、片平を仕留めた。31日の同カードでは6点差の場面で登板、1回を投げて1点を失ったが、その後味方打線が奮起して引き分けになった。
最後の登板は9月3日の日ハム戦で、1点負けている場面でワンポイントとして登板、パットナムを仕留めた。この試合は味方打線の奮起で、結局引き分けになった。
中条はもともと肩に不安を抱えていたが、この後また状態が悪くなり登録を抹消された。ファームでも投げることはなかった。翌1987年のキャンプにもスロー調整で臨んだが、なんとか開幕には間に合った。
こうしてみると、中条の登板は負けている場面でのものが多かったことがわかる。勝敗がつかなかったのもわかる気がする。同点で登板することもあったが、大体が短いイニングにとどまっていた。それにしても、これだけの防御率なのだから、少しもったいないような気もする。なにせ、7月29日の大量失点を除けば、防御室1.80という計算になるのである。特に日ハム戦は、11試合で10回を投げ、自責点はゼロという成績だった。
なお、1987年のデータでは、64キロという中条の体重は球界で下から5番目である。青山ともども、細身の2人が南海の中継ぎを支えていたことになる。
グッドウィンのカモと苦手
シュアな打撃が期待されたグッドウィンは、結局1986年は打率.231で8本塁打という成績に終わり、解雇された。右足のカカトの状態が悪かった上に、落ちる球と左ピッチャーに弱かった。この年のグッドウィンの投手別成績は以下のようになる。
まず西武戦だが、44打数4安打、打率.091と全く歯が立たなかった。東尾は8打数3安打とまずまず打ったが、松沼兄には8打数0安打、渡辺には7打数1安打、工藤には5打数1安打だった。これ以外に9人の投手と対戦したが、ヒットは1本も打てなかった(松沼弟に3打数0安打、小田に2打数0安打、市村に2打数0安打、小野に2打数0安打、郭に2打数0安打、石井に2打数0安打、野口に1打数0安打、黒原に1打数0安打、岡田に1打数0安打)。
近鉄戦には38打数11安打、打率.289で3本塁打と活躍した。特に右サイドスローの佐々木に15打数5安打、2本塁打と相性がよかった。同タイプの柳田からも5打数2安打であり、下手投げの投手には強かった。が、左の小野には4打数0安打で、依田にも2打数0安打、村田にも4打数1安打と抑えられた。しかし、なぜか石本からは2打数2安打で1本塁打を放った。この他、加藤に3打数0安打、谷宏に2打数0安打で、住友には1打数1安打だった。
阪急戦には36打数10安打、打率.278で2本塁打という成績だった。山沖を5打数4安打と打ち込んだが、佐藤に7打数1安打、今井に5打数1安打と抑えられた。ただ、山田には4打数1安打で1本塁打を放った。やはり右下手には強かった。また左腕投手には、星野に4打数1安打1本塁打、宮本に2打数0安打、森に1打数0安打と抑えられた。この他、池内に1打数1安打、谷に2打数0安打、原田に1打数0安打、白井に3打数1安打だった。
ロッテ戦には23打数7安打、打率.304で2本塁打となかなかの成績を収めた。エースの村田からは3打数2安打、1本塁打だったが、これは村田の直球勝負のせいだろうか。また、仁科からは4打数2安打、深沢からも1打数1安打1本塁打を放つなど、やはり右下手には強かった。ただ、荘には5打数0安打(あるいは5打数1安打)と抑えられ、土屋にも2打数0安打、右田にも2打数0安打、西井にも1打数0安打と抑えられた。この他、左腕の伊藤優には4打数2安打(あるいは4打数1安打)、水谷には1打数0安打だった。
最後に日ハム戦では46打数11安打、打率.239で1本塁打という成績だった。なによりも、金沢を16打数1安打と打てなかった。田中幸にも4打数0安打(あるいは5打数1安打)だったが、落ちる球にてこずったのだろう。ただ、意外なことに変則左腕の間柴には6打数3安打、1本塁打と強かった。この他、津野には9打数3安打(あるいは8打数2安打)、河野には3打数1安打、岡部には2打数1安打、柴田には3打数1安打、田中富には2打数0安打、川原には1打数1安打だった。
結局、おおまかにまとめるなら、西武戦には全く通用せず、左腕にも弱かったが、右下手には強かったということになる。一般に、外国人選手は下手投げに弱いと言われるが、グッドウィンは右の下手・横手には強かったのである。
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