南海の甲子園球児たち
(随時追加中)
○は勝ち、●は負け。
1978年度に3年生−
【吉田博之】(1978年夏○●)
吉田は宮崎県で生まれ、1歳の時に横浜市に引っ越した。肩が強く、下永屋小学校では投手、港南中ではショートを務め、横浜高に進むと1年生でサードのレギュラーを獲得した。その年の秋にはショートに戻り、1学年上の中田良弘(後に阪神)と秋季県予選を勝ち進んだ。が、準々決勝で敗退した。
3年生の時に、1年生の愛甲猛の球を捕るためにキャッチャーになり、バッテリーを組んで夏の甲子園に出場した。初戦(2回戦)では10対2で徳島商を下したが、吉田は3番を打ち、5打数で2安打を放った。3回には同点打、4回には決勝3ランという大活躍だった。続く3回戦では県岐阜商と対戦して0対3で敗れた。吉田は5打数無安打、8回には予選を通して初エラーでダメ押し点を与えてしまった。試合後の吉田のサバサバしたコメントが『朝日新聞』に載っているが、後は愛甲らがやってくれるという思いがあったのだろうか。
吉田はこの年の秋に南海に4位指名されてプロ入りした。「打てる捕手」としての本領を発揮するまでは時間がかかったが、1987年には1試合3本塁打を記録している。
1979年度に3年生−
【中村弘道】(1978年夏●)
中村は小学校4年生から投手を始め、厚生中3年の時に、中部9県中学野球大会で優勝した。そのまま宇治山田商業に進学し、2年生だった1978年の夏の大会に、エースとして出場した。三重県予選で44回を投げて39三振を奪い、チームを甲子園に導いたのである。が、甲子園では初戦で剛球投手・津田恒美の南陽工と当たってしまった。中村は3安打を打たれただけだったが、5回に三塁打とホームスチールで2点を失い。0対2で敗れた。ホームスチールはそのモーションの大きさを狙われたものだった。中村は1979年にも、直球とカーブのキレを増し、宇治山田商は甲子園に導くものと見られていた。が、三重県予選の準々決勝で上野に0対3で敗れた。少し味方打線が弱かったようである。
この後の中村はノンプロの拓銀で活躍し、毎年のようにドラフト候補として名があがった。そして、1985年秋のドラフトで南海の2位指名でプロ入りした。が、小柄で球速が足りず、左のワンポイントを務めるのがやっとだった。中条、橋本との競争に敗れたこともあり、1986年に17試合、1987年に10試合に登板しただけで、1989年途中に中日に移籍した。中日では2試合に投げ、この年限りで自由契約になった。
【香川伸行、山本昭良】(1978年春●、1979年春○○○○●・夏○○○○●)
高校野球史上に名を残した牛島−香川の浪商バッテリー。実はそれは、際どいところで成立したものだった。大阪体育大附属中の時、周囲が浪商への進学を勧めたのに対し、香川はより甲子園に近い天理高に進もうとしていた。浪商が既に甲子園常連高ではなくなっていたためだが、牛島が入学を決めたことを知り、天理行きをとりやめたのだった。この時に、山本昭良をはじめとする多くのチームメイトが、香川が行くならと浪商行きを選んでいる。山本は実家が香川の家から歩いて10分、リトルリーグも同チームという間柄だった。
牛島と香川は、1年生の秋季大会からエースと4番に定着し、大阪府予選を勝ち上がった。最後は4チームの総当たり戦で、近畿大会への出場校を決めるシステムだった。浪商は2勝1敗の成績でこれを見事に突破した(近大付と大鉄に勝利、PLには大敗)。近畿大会の初戦では、再び大鉄と対戦したが、香川が本塁打を放って6対4で競り勝った。続く準々決勝では、牛島が天理打線を2安打で完封し、センバツ出場を決定的にした。準決勝は、PLの西田−木戸のバッテリーとの再戦となり、牛島は7安打を打たれただけだったが、コントロールを乱して6点をとられてしまった。それを浪商打線が9回に逆転し、8対6で勝利を収めた。香川はこの試合でも本塁打を放っている。この試合後に行われた決勝戦では、牛島は登板せず、2対4で村野工業に敗れた。
1978年のセンバツでは、浪商は優勝候補の一角にあげられていた。近畿大会の準優勝校、それも決勝戦はエースを温存してのものだったから、実力は全国でもトップレベルと見られた。
ところが、初戦(1回戦)の高松商業戦で、歯車が噛み合わないままにあっさりと敗れてしまった。0対1のまま、ランナーが本塁で2回にわたって憤死し、8回にはエラーで2点を追加されてしまった。結局、スコアは0対3、4番の香川は2打数1安打、2四球、1番・ショートの山本昭良は、4打数無安打という成績だった。なお、新聞を見ると、香川の「ドカベン」というニックネームは、既にこの頃から使われていたことがわかる。
その年の夏、大阪府予選は、センバツでベスト8のPLを、浪商が追いかける展開になると予想されていた。PLは3年生では西田、木戸、谷松、金石らが、2年生では小早川、山中、阿部らが後にプロ入りする豪華な陣容だった。センバツでは、箕島の石井−嶋田の2年生バッテリーに敗れたが、実力を発揮すれば全国優勝も可能と見られていた。ところがこのPLと戦う前に、浪商は4回戦であっさりと敗退してしまった。初芝高を相手に3対4というスコアだったが、油断があったのだろうか。
秋に新チームが結成されると、3番・山本、4番・香川、5番・牛島というクリーンナップが組まれることになった。ところが近畿大会を前に、香川が右手人差し指を骨折してしまい、浪商は4番不在で戦わなければならなくなった。それでも、初戦で東洋大姫路に6対5と競り勝ち、センバツ出場を手中にした。さらに準決勝では、石井−嶋田の箕島と初めてぶつかった。そして、11対4で8回コールドと、この強豪を圧倒した。この後、PLを下して決勝に進んできた尼崎北に、7対3と快勝し、浪商は近畿大会を制している。
翌年(1979年)のセンバツでは、優勝候補の本命として甲子園に出場した。新チーム結成以後の打率は、香川が.385、山本が.444というもので、牛島は1.00という防御率を誇っていた。そして初戦では、愛知高を6対1と圧倒した。香川は8回に、追加点となるソロホーマー(通算29本目)を放ち、3打数2安打とその存在感を見せつけた。山本も4打数2安打で1盗塁を記録した。
2回戦では、前年夏に甲子園で準優勝を収めた(優勝はPL)高知商業とぶつかった。前年からのエース・森浩二(後に阪急)を相手に、初回に山本の安打、香川の犠牲フライで1点を先制した。高知商も9回に追い上げたが、なんとか3対2で振り切った。この試合、香川は3打数1安打で1打点、山本は4打数2安打だったが2失策を犯してしまった。
2日後の準々決勝は、好投手・鍋島を擁する川之江との対戦になった。浪商は、7回に山本の押し出し四球で同点とし、続く香川のタイムリーで3対2とリードを奪った。その後、試合は延長13回までもつれ込み、最後は浪商がサヨナラ勝ちを収めた(スコアは4対3)。この試合、香川は4打数1安打で1打点、2四球、山本は3打数1安打で1打点、1四球だった。
翌日の準決勝で当たった東洋大姫路は、近畿大会で苦戦した相手だった。が、この日は香川が同点本塁打(2回、ソロ)を放つなどクリーンナップが活躍して、5対3で振り切った。香川は5打数3安打で1打点、山本は5打数2安打だった。
次の日の決勝戦は、準決勝でPLを下した箕島との点の取り合いになった。香川は5打数2安打(二塁打1本)で2打点、山本は3打数2安打(三塁打1本)で1打点、2四球と活躍したが、接戦の末に7対8で敗退した。
センバツの後、牛島は腰を痛めていたが、夏の大会では完全に復調していた。大阪府予選では、準決勝まで無失点であり、決勝戦でセンバツベスト4のPLと激突した。この好カードに、日生球場には2万5000人の観客が訪れた。浪商は1回表に、香川の二塁打でまず2点を先制し、そのままこの回に5点をあげた。PLも牛島から3点をとるなど食い下がったが、結局9対3で浪商が甲子園出場を決めた。この試合、香川(3番)は4打数2安打で3打点、予選の3回戦から4番に入っていた山本は、4打数1安打という成績だった。香川の予選での打率は.444ということになり、3本塁打は広島商業の永田利則(後に広島、南海)と並んでトップだった。また山本は.259という打率だった。
甲子園では、浪商と箕島のどちらかが優勝するという下馬評だった。が、浪商は1回戦でピンチを迎えた。仁村徹(後に中日)が投手を務める上尾高に、0対2で9回2死と追い詰められてしまった。ここで牛島が同点2ランを放ち、延長11回に山本が二塁打を放ってサヨナラ勝ちを収めたのだった。この試合、香川は4打数1安打、1四球、山本は5打数1安打、1打点という成績だった。
2回戦の倉敷商業戦は快勝だった。1対0の6回に香川が3ランを放ち、牛島が相手打線をシャットアウトした。香川は3打数1安打、3打点、山本は3打数1安打という成績だった。
続く3回戦は、広島商業との対戦になった。広島商の4番・サードの永田利則は予選で3本塁打を放っており、香川と並ぶ強打者と見られていた。が、この対決は、9対1で浪商の圧勝となった。香川は5回に、勝ち越しのソロホーマーを放つなど、5打数2安打で1打点をあげた。また山本も、8回に本塁打を放つなど4打数2安打で2打点、1四球という活躍を見せた。対する永田は4打数無安打だった。
2日後の準々決勝・比叡山戦も、10対0と浪商の圧勝だった。香川は3試合連続の本塁打を放つなど、4打数2安打で2打点をあげた。山本も、2試合連続アーチを放つなど5打数3安打で3打点、1盗塁と活躍した。
これでベスト4には浪商、箕島、横浜商、池田が残った。準決勝がクジ引きで、浪商と池田、箕島と横浜商の対戦になった時、ファンは決勝戦で浪商・箕島戦が再現されることを確信した。ところが、池田も強かった(まだ同校がパワー野球で有名になる前だったが)。浪商・池田戦は、牛島・橋川の投手戦となり、7回に1点を先制された浪商は焦りが出てしまった。9回表にエラーで2点目を献上し、その裏は香川からの攻撃で始まった。香川は四球、続く山本がヒットで無死1・2塁。ここでバントを指示された牛島は打って出て、最悪のダブルプレーを招いてしまった。そして次打者が凡退して浪商は敗退した。
この試合、香川は2打数無安打、2四球。山本は4打数2安打、二塁打1本という成績だった。この後の秋のドラフトで、香川は少年時代からファンだった南海に2位指名を受けて入団した。牛島もドラフト1位で中日に入った。山本も神戸製鋼に内定していたが、プロの夢が捨てきれず、ドラフト外で南海に入ることになった。
香川は身長は170センチと、プロ野球選手としては小柄な部類だったが、体重は高校時代には90キロ台で収まっていた。3年生のセンバツの時には96キロ、夏の大会では92キロと発表されている。プロ入り後は、これが増えると共に成績を下げ、130キロ近くに膨れ上がった最末期にはほとんど戦力にならなかった。一方の山本は、172センチ、68キロという小柄な選手だった。プロでは変化球にとまどい、ファームでも低打率にあえいだ(1年目.149、2年目.231)。スローイングの悪さも矯正されないまま、出場機会も少なく、早い時期に気持ちが切れてしまった。そして、結局1軍には出場できないまま引退した。
【藤村雅人】(1978年春●)
1979年に春夏連覇を果たした箕島バッテリー(石井−嶋田)は、2年生の時にも春夏連続で甲子園に出場していた。そして春はベスト4に進出し(最後は福井商業に敗退)、夏は3回戦にまで進出した(中京に敗退)。この黄金のバッテリーと同学年で、箕島高がある有田市の隣町の高校(吉備高)に通っていたのが藤村だった。
藤村が1年生の秋、同校は投手に転向した岡本哲司(1学年上、後に日ハム)の荒れ球が効を奏し、和歌山県予選を勝ち進んだ。岡本はもともと捕手だったが、マウンドに立ってみると意外な速球を投げ、あれよあれよという間に決勝まで進んでいた。もっとも、球は速いがコントロールが悪く、1試合を投げ切るのは難しかった。そこでリリーフ役を任されたのが藤村だった。長身からのカーブとストレート武器としたピッチングは、岡本以上にまとまりがあった。
そして県大会の決勝で、石井−嶋田の箕島と対決した。吉備は4対6と善戦したが、さすがに勝つことはできなかった。それでも近畿大会に進出し、そこではまず市神港を4対3と下した。続く準々決勝でも善戦したが、郡山に2対4と敗北した。センバツ出場は微妙なところだったが、1勝が認められて選ばれることになった。
新チーム結成以来、この時までに岡本は25試合、176回を投げて133奪三振、86四死球で防御率は2.30だった。一方の藤村は、10試合で41回1/3を投げ、17奪三振、10誌四球で防御率は0.66だった。
1978年のセンバツでは、まず岐阜高との対戦になった。先発の岡本は6回までに8四球を与えたが、再三のピンチをしのぎ、終盤まで3対1とリードしていた。そして7回から藤村がマウンドに上がった。藤村は、いきなり三塁打を打たれ、その後も2四球で満塁とされた。が、なんとかこの回を無失点に切り抜けた。ところが8回にも、連打と四球で満塁とされ、犠飛で1点差に追い上げられた。さらに四球を与えて満塁とし、ここで降板することになった。この後、セカンドの長谷がマウンドに上がったが2四球で、再度登板した岡本も打ち込まれて、この回に7点を失ってしまった。結局試合は4対9で吉備の敗戦となった。吉備の3投手が13四球を出したのは、雨で球が滑ったせいもあっただろう。
この後、岡本は外野に専念することになり、藤村が2年生でチームのエースになった。これでチームバランスが良くなり、吉備は春の県大会で、4試合で30点をあげて優勝した(箕島は準決勝で石井毅を投げさせず、橋本に敗退)。続く夏の県予選でも勝利を続け、決勝戦で箕島とぶつかった。試合は藤村と石井の投げ合いで、6回まで0対0だったが、7回裏に箕島が得意のプッシュバント攻撃で無死満塁とした。ここで藤村は痛恨の押し出しで1点を与え、その後も連打で計5点を失った。終わってみれば0対5での完敗だった。
秋に結成された新チームは、4番の岡本らが卒業したために、打力が足りない平凡なチームになってしまった。藤村もバッティングは良くなく、その右腕で守りに徹することしかできなかった。その結果、秋の県予選を勝ち抜くことはできなかった。それでも最後の夏(1979年夏)は、藤村の調子さえ良ければ、箕島を食うことも充分に予想できた。春夏連覇を目指す箕島にとってみれば、吉備は嫌な相手だったろう。が、吉備は県予選の1回戦で、新宮商業を相手に延長10回を戦い、あっさりと負けてしまった(スコアは3対4)。
同年秋に、藤村はドラフト外で西武入りを決め、4年後(1983年オフ)には大津と共に南海に移籍した。そして、自由契約になったのも大津と同時(1987年オフ)だった。
1980年度に3年生−
【井上祐二】(1979年夏○●)
井上は、日南市の吾田中ではキャッチャーを務めていた。都城高に進学した後、川野監督がその体格を見込み投手に転向させた。井上の独特の小さいフォームは、捕手上がりだったことに起因する。
井上は力のある速球を持ち、2年生の時に夏の甲子園に出場した。初戦(2回戦)では足利学園を5回までノーヒットに抑えた。後半にスタミナ切れして追い上げられたが、なんとか6対4で勝利を収めた。続く3回戦では高知高と対戦した。この試合でも後半に打ち込まれ、1対5で敗れてしまった。カーブの制球に難があり、勝負どころで直球を狙われたようでもある。
井上はその後、右ヒジを痛めたが、3年生の夏(1980年)には、泉ヶ丘高、日南高を完封し、県大会の準々決勝に臨んだ。日向学院との試合では延長16回に初失点を喫し、ここで敗れてしまった。それでもその実力は注目を集め、同年秋のドラフトで南海が2位指名をし、プロ入りすることになった。
井上は重心の低いフォームから速球を繰り出すタイプだったが、やや力でねじ伏せる投げ方でもあった。それゆえに短いイニングスに適応しており、抑えに転向して飛躍を果たすことになった。そのあたりの井上の将来の姿が、既に高校2年時の試合ぶりに現れているように思うが、どうだろうか。
【刀根剛】(1979年夏●、1980年夏○●)
刀根は三拍子揃った外野手として、1年生の秋から敦賀高校の中軸を打っていた。同学年の大矢と投打の主役となり、秋季県大会で準優勝して北信越大会に歩を進めた。が、あと一歩のところで敗退し、センバツ出場は叶わなかった。それでも夏の県予選では3番・センターで打率.294を記録し、甲子園への出場を決めた。甲子園では1回戦で城西高と対戦し、5打数3安打、三塁打2本、1盗塁と活躍した。三塁打はいずれも同点に繋がっており、勝負強さもアピールしたが、チームは3対4で敗れてしまった。
同年の秋には、福井県大会の準決勝で敗れ北信越大会への出場を逃した。その結果、センバツ出場は無理になった。最後の夏(1980年)にはやや不振だったが、大矢の活躍もあり県予選を勝ち抜いた。そして甲子園の初戦では、山形南高に2対1と競り勝った。刀根は4打数1安打だった。2戦目は石本貴昭(後に近鉄)を擁する滝川高に食い下がったが、5対6で敗れてしまった。刀根は4打数無安打とブレーキになってしまった。
同年秋のドラフトでは、2位の井上に続き、南海に3位で指名された。が、プロでは力を発揮できず、1軍では3試合に出場しただけで、5年で退団することになった。
【大津一洋】(1980年夏○○●)
井上、刀根らと大津も同級生だった。熊本工業のエースとして、1980年夏の甲子園に出場した。バッテリーを組んだのは伊東勤(後に西武)である。熊本県予選の決勝では、ライバル・秋山幸二の八代高に苦戦し、大津も途中降板した。が、打線が9回表に3点をとり、逆転しての優勝だった。
甲子園では、1回戦で弘前工業を4安打、9三振に完封した。ゆったりしたフォームから、テンポよく速球と鋭いカーブを投げ込むのが特徴だった。チームは5点をとり、5対0と完勝を収めた。2回戦では大府高を9安打、2点に抑えた。スコアは4対2であり、愛知県代表の強豪に競り勝ったことになる。が、次の3回戦で天理高に3対6で敗れた。天理の4番は2年生の藤本博史で、同じく2年生の川本和宏と小山昌男(後に近鉄)が投手という層の厚いチームだった。
大津と秋山はこの年の秋にドラフト外で西武に入ることになり、高校野球への出場機会がなくなった伊東(定時制のため)は、球団職員を経て1年後に西武入り(ドラフト1位)した。大津は1983年のオフに、無償で南海にトレードされ、1984年には1試合、1985年には14試合に登板した。が、剛速球があるわけでもなく、正確なコントロールがあるわけでもないために、後輩たちが伸びてきた1986、1987年には登板機会を失ってしまった。特に1987年には、1軍に帯同してバッティングピッチャーをやらされ、自分の練習もできなくなってしまったようである。そのオフに解雇されたが、この球団の措置は問題視された。
1981年度に3年生−
【藤本博史】(1980年夏)○○○●
既に記したように、2年生の時(1980年)から天理高の4番・サードを務めていた。春の県大会で桜井商業の駒田(後に巨人)を打ち込み、既に県予選の段階から注目を集めていた。夏の県予選では打率.350であり、183センチで83キロという体と相俟って迫力を醸し出していた。
甲子園では初戦(2回戦)で、新発田農業高を相手に5打数3安打、打点2を記録した。次いで3回戦では、熊本工業の大津から5打数3安打、打点2、二塁打2本を放った。準々決勝の相手・広陵高に対しては、3打数2安打、2四球、二塁打1本という猛打である。13打数8安打、出塁率.667というのは物凄い数字だった。が、準決勝では愛甲の横浜と対決し、4打数1安打に抑えられた。この試合は雨の中で行われたため足場が悪く、藤本の打球も2度まで相手のエラーを誘った。が、藤本自身も7回に決勝点に繋がるエラーをしたのだった。
ここまでの試合では、2年生の川本和宏、小山昌男が主力投手として活躍していた。この2人も後にプロ指名された実力派であり、藤本と合わせた3人が3年生になる1981年には、天理高こそが最強チームになると見られていた。ところが、秋季奈良大会を制し、近畿大会への出場を決めた直後に、部員の暴力事件が発覚して、1年間の対外試合の禁止が言い渡された。そのためにこれは「幻の最強チーム」に終わってしまった。
1年後、1981年の秋に、藤本博史は南海にドラフト4位で指名された。川本は6位、小山は近鉄に2位指名され、それぞれプロ入りすることになった。
【西川佳明】(1981年春○○○○○)
天理高が不出場となった1980年の秋季大会で、近畿地区を制したのがPL学園だった。西川はそのエースとして、新チーム結成以後109イニングスを投げ、被安打は69本、奪三振は106で防御率は0.99という成績を残した。大阪府予選準決勝での近大附、決勝での上宮に続き、近畿大会の初戦でも報徳学園(金村義明がエースで4番)を3安打・8三振で完封し、翌年のセンバツでは、優勝候補と見なされた。チームメイトにも、3番・ファーストの吉村禎昭(後に巨人)、1番・ライトの若井基安(後に南海)など強力なメンバーが揃っていた。この時期の西川は、その奪三振率からも窺えるように、まだ本格派の投手だった。腕もかなり高い位置から出ており、力と技を兼ね備えたタイプだった。
センバツの1回戦では、岡山理大附高を1安打、1四球で完封し、その力を見せつけた(スコアは5対0)。2回戦でも東海大工業を4安打で連続完封した(スコアは1対0)。1回戦の9個に続き、この試合では13の三振を奪っている。準々決勝では、日立工業を3安打2点に抑え、8対2で勝利を収めた。2失点はエラーをきっかけとしたものであり、自責点はこの段階で0だった。準決勝でも倉吉北を6安打で完封した(スコアは4対0)。ここまで36回を投げて被安打は14、奪三振は38、与えた四死球は僅か4つだった。
決勝戦の相手は、後に3人のメンバーがプロ入りする印旛高だった(投手・佐藤文男と捕手・月山が阪神へ、二塁手・村上が阪急へ)。西川は6回にカーブを続けてタイムリーを打たれ、初の自責点(1)を喫した。が、9回裏に2点をとり逆転サヨナラ勝ちで優勝を収めた。最後に一塁線を破るサヨナラ打を放ったのは、西川自身だった。
このように、西川は安定性・制球力・投球術を兼ね備えていたが、夏の大阪府予選では大商大堺に足元をすくわれてしまった。打線が1点しかとれないまま、8回に逆転されてしまい、春夏連覇への夢は絶たれた。
この後、法政大学に進学した西川は、1985年秋のドラフトで1位指名を受け、南海に入団した。大学でも活躍したのだが、コントロールを重視するために腕を下げ、スピードは高校時代よりも落ちていた。
1982年度に3年生−
【藤本修二】(1981年夏○○●)
西川のPLが近畿大会を制した頃、今治西高の1年生エース・藤本修二は、明治神宮野球大会に出場していた。1学年上の渡辺弘(1985年秋のドラフトで日ハムが2位指名)を差し置いてエースを務め、初戦では北海道日大高を1点に抑えた(スコアは4対1)。が、連投となった翌日の準決勝(対星陵高)では打ち込まれ、0対5での敗戦となった。この星陵高は、次の日の決勝で荒木大輔の早実高を破り優勝している。
2週間後、センバツ出場を賭けた四国大会が始まった。今治西は優勝候補と見られていたが、初戦で丸亀商にあっさりと敗れた。この時の先発は、藤本と同級生の渡辺等(普段はレフト、後に日産自動車で選手・コーチ)だったが、救援で登板した藤本も、追加点をとられ傷口を広げてしまった。
こうして、2年時(1981年)のセンバツ出場を逃したが、夏の大会(愛媛県予選)では見事に勝ち上がった。最後は3連投になったが、決勝では帝京第五高を2安打に抑え、甲子園への出場を決めた(スコアは4対1)。予選6試合での成績は、48回1/3を投げて自責点は6、防御率1.13というものだった。
この時の今治西高は、予選で打率.367を記録しており、むしろ打撃が売り物のチームだった。特に、藤本の同級生の武田康(藤本と同時期にドラフト5位で大洋入り)は、2年生ながら4番・キャッチャーを務め、注目を集めていた。
甲子園での初戦(2回戦)では、国学院久我山高とぶつかった。藤本は13安打を浴び、当時の矢野監督に「あれほど打たれた藤本は初めて見た」といわせたほどだった。が、要所を締めて3対2で競り勝った。続く3回戦では、新発田農業高を9対1と圧倒した。藤本は8回までを4安打に抑え、最後の1イニングスは渡辺弘が締めた。
次の準々決勝では、優勝した金村の報徳学園高との対戦になった。試合は4回に今治西が先制したが、その裏に守備の乱れから逆転されてしまった。まず、遊撃手の落球で併殺に失敗し、続いて藤本の野選で満塁、それからタイムリーと2ランスクイズで3点をとられた。この後は両チームともに無得点で、結局1対3というスコアだった。
それでも、ベスト8に入った上に、2年生エースと2年生の4番が残ったのだから、翌年(1982年)への期待は高まった。レフトの渡辺等も、引き続きレギュラーを務める筈だった。ところが藤本修二は、10月はじめに体育の授業中に左手首を骨折し、秋季大会に投げることができなくなった。10月中旬の国体では、渡辺弘に加え、2年生の渡辺等が好投して、優勝を果たしたものの、新チームでは愛媛大会を勝ち抜くことはできなかった。
最後の夏には、藤本のケガも治り、今治西は愛媛大会を順調に勝ち進んだ。準々決勝では、最大のライバルの松山商業を下し(スコアは5対3)、甲子園への道は大きく開かれた。準決勝で新田高を下すと(スコアは3対1)、後は決勝戦が残るだけだった。が、連投となったこの試合(川之江高戦)で、藤本は8安打を打たれ3点をとられてしまった。一方の打線も、左腕・高橋喜のカーブを打てず無得点に抑えられ、0対3での敗戦となった。
藤本修二は同年秋のドラフトで5位指名を受け、南海に入団した。最後の年に、もう1つ勝って甲子園に出場していれば、もう少し順位が上がっていたかもしれない。
【森浩之】(1982年春○○○○○)
PL学園での西川・若井らの1年後輩で、1981年秋から正捕手になったのが森だった。が、高校時代の森はあまり注目された選手ではなく、打順も6番だった。この年のPLは榎田(後に阪急)ら複数の好投手を擁し、むしろ守備のチームだった。それでも、秋の府予選の決勝で公立の桜宮高に敗れる(0対1)まで無敗を続け、続く近畿地区大会でも準決勝まで勝ち上がった(箕島に2対3で敗戦)。
翌年(1982年)のセンバツでは、PLは箕島、明徳、早実などと共に優勝候補にあげられた。1回戦では東北高を4対1と下した。東北の投手は、後に阪神に入った金子誠一であり、森は4打数無安打、3三振に終わった。続く2回戦では、浜田高を2対1で振り切った(浜田には後に中日に入った清水雅治がいた)。森は4打数1安打だった。準々決勝の箕島戦は、事実上の決勝戦といわれたが、PLが1対0で競り勝った。森は3打数無安打だった。
準決勝では横浜商業と対戦した。その2年生エース・三浦将明(後に中日)から、森は先制の二塁打を放ち、初めて打撃でチームに貢献した。この試合、森は3打数1安打で1打点、スコアは3対2でPLがものにした。翌日の決勝戦は、二松学舎に15対2と大勝した。森は5打数1安打だった。
夏の県予選では、PLの最大のライバルと目されたのは、共にセンバツに出場した桜宮だった(桜宮はセンバツ初戦で中京に敗退)。4回戦で同校を2対1と下した時、PLの甲子園への道は大きく開かれたかに見えた。が、準々決勝で春日丘高に5対6で敗れてしまった。
森は東洋大学に進んだが、巧みなリードと強肩に加え、打撃でも一皮剥けたのは2年生になった頃からだった。この年(1984年)の春の東都リーグでベストナイン、秋には.324で打撃ベストテンに入った(10位)。
3年生の春のリーグでもベストナイン(満票)、6月の大学野球選手権では準優勝、7月の日米大学野球でも3試合に先発した。主将になった4年生の春には、.326で3本塁打を放ち、東洋大を優勝に導き、MVPとベストナインを獲得した。6月には大学野球選手権で優勝、森自身も打率.368で6打点と大活躍をした。7月の日米大学野球、世界アマ野球には、全日本の主将として5番、次いで4番・捕手を務めた(控え捕手には高田誠(後に巨人)、宮里太(後に大洋)がいた)。
最後の秋のリーグ戦では、18打数無安打、ケガもあって途中欠場の末に、最後の試合に代打で出てヒットを放った。森はリーグ終了の直後に、南海が2位指名してプロ入りした。が、打力不足で南海の2年間は無安打、ダイエー1年目(1989年)にようやく初安打を放った。その後も吉永が台頭した上、有田、岩切がトレードで来たために、控え捕手の座も確保できず、プロ5年で引退した。最後の大学リーグ戦でのケガが、プロ入り後も尾を引いたように見えるのだが、詳しくはわからない。
【畠山準】(1982年夏○○○○○○)
牛島−香川の浪商を撃破した池田高に、翌年に入学した豪腕投手が畠山だった。鳴門商業からの誘いを断わり、甲子園で観戦した憧れの池田に進学した。徳島県には野球名門私学がないために、県立高校が選手を取り合ったが、畠山の進学を聞いて有力選手が池田に流れた。
が、ライバルも多く、なかなか甲子園に出ることはできなかった。畠山が1年生の時には(1980年)、島田茂(後にロッテ)−秦真司(後にヤクルト)の鳴門バッテリーが春夏連続で出場した。畠山は夏の県大会にリリーフで登板し、準決勝では強豪の鳴門商業を破った。が、決勝戦では、鳴門を相手に3回から登板し、5回2/3を2安打に抑えたものの、味方打線が沈黙し2対3で敗れた。
この後、秋には県大会2回戦でバントの際に右手甲を痛めてしまった。その影響で、準々決勝の小松島戦では球が走らず、4対5で敗れた。結局、翌年のセンバツには、同学年の山中賢次(後に阪急)がリリーフを務める鳴門商業が出場した。畠山は、その甲子園帰りの鳴門商を、2年生の春の大会で破った。さらに、続く春季四国大会でも準優勝を収めた(決勝で高松商に逆転負け)。そして勇躍、夏の県予選に臨んだが、ここでまた新たなライバルが出現した。名門・徳島商業の2年生エース・遠野誠明(後に日本製薬)である。遠野は速球派というよりも大きなカーブで勝負するタイプだったが、県大会ではここまで無失点だった。池田との準々決勝での対決は、延長11回を戦った末に、3対2で徳島商の勝利に終わった。(遠野はこの後の試合でも無失点のまま甲子園に出場し、横浜高に敗れた)
2年生の秋に新チームが結成された時、当時1年生だった江上光治、水野雄仁を加え、江上・畠山・水野のクリーンナップができあがった。池田は県大会で準優勝し(決勝では山中の鳴門商に0対3で敗れた)、四国大会への出場を決めた。ここで1勝すればセンバツ出場が当確になったのだが、対戦相手は強豪・明徳だった。明徳は藤本茂喜(後に巨人)が中軸を打ち、神宮野球大会では優勝を収めていた。試合は投手戦になり、池田は0対1で敗れてしまった(この敗戦をきっかけに、池田は筋トレを導入しパワー野球を目指すようになった)。
最後の夏を前に、池田は春の大会で徳島商と、センバツ帰りの鳴門商を破った。これで勢いをつけて夏の大会に臨み、1回戦、2回戦、準々決勝を完封で勝ち上がった。準決勝では、川島高を相手に11対2で圧勝した(この試合、水野が本塁打を放っている)。鳴門商や鳴門工業は潰し合いの中で敗退し、決勝戦は徳島商との対決になった。この試合、池田は遠野に12安打を浴びせ、畠山は毎回三振を奪い、6対3で勝利を収めた。畠山が打たれたヒットは4本、自らは1本塁打を含む3安打を放った。
予選での畠山の打率は.526というものであり、打撃にも非凡なものを見せていた。が、その投球に高校No.1という評価が与えられていた。39回を投げて被安打は僅か13、四球は10で失点は5という成績だった。「山びこ打線」の池田は、荒木大輔(3年生。後にヤクルト)の早実、野中徹博(2年生。後に阪急)の中京と共に、優勝候補にあげられた。池田にとっては、昨秋とこの春の四国大会で敗れた明徳が、予選敗退していたのも有利な材料だった。
甲子園での1回戦は、静岡高との対戦になった。同校のエースは、後に南海で同僚になる大久保学だった。静岡もなかなかの強豪といわれ、3回には畠山の暴投により1点を先制した。が、4、5回に池田が集中打で5点をあげ逆転した。結局、試合は5対2で池田が勝った。畠山は9安打を浴びたが、11三振を奪い、まずまずの投球だった。また打つ方では4打数2安打だった。
2回戦の日大三高戦では、5回に失策をきっかけに3点を取られたが、あとはまずまずの投球だった。打線も4点を奪い、4対3で勝利を収めた。畠山は被安打6、自責点0というピッチングだった。打つ方は3打数1安打という成績だった。
3回戦で当たった都城には、中島良浩(後に西武)−宮里太(後に大洋)という強力なバッテリーがいた。連投となった畠山は制球が悪く、6四球を出してしまい、打たせる投球に終始して10安打を浴びてしまった。試合も4対1から1点差まで追い上げられたが、最後は5対3で競り勝った。この試合、畠山は、初めての長打(二塁打)を放っている(4打数1安打)。
準々決勝は、早実との激突になった。この試合、池田は、アイドル・荒木に17安打を浴びせ、控えの石井丈裕(後に西武)からも3点を奪い圧勝した。スコアは14対2、畠山は早実を4安打に抑える好投を見せた。ただ、水野が2本塁打、江上も本塁打を放ったのに対し、6打数1安打と打つ方はお休みだった。
翌日の準決勝では、東洋大姫路とぶつかった。畠山は肩に痛みがあり、守備の乱れもあって1回に2点を失った。が、打線がカバーして逆転し、畠山もカーブでかわす投球で後を切り抜けた。結局スコアは4対3、畠山は被安打9、自責点1というピッチングだった。打つ方では4打数1安打、その1本は二塁打だった。
決勝の相手は、伝統校の広島商業だった。池田は1回表にいきなり6点を奪い、以後も合計18安打を放った。結局、スコアは12対2で池田の圧勝となった。畠山は被安打4、自責点1という見事なピッチングを見せ、打つ方でもソロホーマーを放った(5打数2安打で2打点)。
畠山の投球は、連投1回、3連投1回を挟みながら、54回を投げて自責点8、防御率1.33というものだった。最後の3連投で自責点3というのは見事である。一方の打撃は、26打数8安打、本塁打1、二塁打2、打率.308だった。この年の秋に豪腕を見込まれて南海に1位指名されたが、プロで花を咲かせたのは打撃の方だった。
1983年度に3年生−
【田嶋俊雄】(1983年春●)
水野・江上の池田高が甲子園を席巻した1983年のセンバツに、田嶋も長浜北高のエースとして出場した。弱い打線を1人で支え、前年秋の近畿大会ではベスト4まで進出していた。新チーム結成後、防御率は1.13、奪三振は156に達し、右の本格派として注目を集めた。が、初戦(1回戦)で東北高と対戦し、好投しながらも、味方のエラーで同点にされ、そのまま逆転負けを喫した(スコアは2対4)。
それでも春の県大会を制し、その評価は変わらなかった。ただ、連投になるとコントロールが甘くなることが指摘されていた。それゆえか、最後の夏は、県大会の準決勝で温存され(2番手の堀井が八日市高を完封)、翌日の決勝戦に満を持して上がった。そして、期待通りに比叡山高を4安打に抑える好投をした。が、味方打線が完封されてしまい、再度の甲子園出場はならなかった(スコアは0対2)。
この後、社会人野球の強豪・日本生命に進み、その2年目(1985年)には都市対抗野球の本戦で先発を果たした。が。初めてのマウンドでストライクが入らず、結局1回1/3を3安打、3四球で降板した(新日鉄釜石戦)。この試合は、リリーフしたエース・早瀬万豊(後に日本生命監督)の好投で勝利を収めた。日本生命はこの後3連勝して優勝したが、そこでは田嶋の登板はなかった。早瀬、伊藤伸幸というプロを拒んだベテランエースがいたために、敢えて田嶋を使う必要はなかったのである。
その田嶋が急成長したのは、3年目(1986年)のことだった。速球に磨きをかけ、一層注目されるようになった。都市対抗野球でも、2戦目に早瀬が崩れた後を受け、4回1/3を無安打無失点に抑えた(試合は1対2で三菱重工広島に敗北)。10月の社会人野球選手権でも、先発を任され、5回1/3を6安打2失点とまずまずの投球をした(試合は1対2で河合楽器に敗北)。
この実力が認められて、同年秋のドラフトでは南海が1位指名をした。田嶋はプロ1年目(1987年)に3勝をあげ、次のシーズンへの期待を抱かせた。好投しても味方打線が沈黙することが多く、また夏場には中継ぎにまわったために勝ち星は増えなかったが、その力は誰もが認めるものだった。が、秋季キャンプでウエートトレをやって肩を痛め、以後はファームでも登板できないまま、3年後に解雇された(1990年オフ)。その後、アメリカ1Aに渡り、さらに「トニー田島」を名乗って日本球界に復帰したが、かつての速球は戻らなかった。
【近田豊年】(1983年春○○○●)
近田は、高知・明徳高校の投手として甲子園に出場したが、登板したのは1イニングだけだった。
近田が入学した頃、明徳高校(現明徳義塾高校)は野球部の充実を図り、県内の有力選手を招き入れつつあった。近田も、県西端の宿毛市を離れ、明徳がある須崎市で寮生活をすることになった。明徳は、近田が2年生の春(1982年)に、甲子園に初出場し、箕島高校と接戦を演じた。が、この年、近田はベンチ入りを果たせなかった。
秋に新チームが編成された後も、近田は背番号11の3番手投手にとどまった。一学年下の、明徳中学時代に四国大会を制した山本賢(後に駒大)がエースとなり、背番号10の福原良幸(近田と同学年)との継投が、投手起用の基本パターンとなった。この2人は制球が良い変化球投手で、速球派(ただしコントロールは悪い)の近田とは対照的な存在だった。
明徳は秋季大会を勝ち上がったが、四国地区大会の準決勝で、3対4で尽誠学園に敗れた(次の試合で尽誠を破り優勝したのが、水野がいた池田)。が、練習試合での勝率の高さなども認められ、センバツに選ばれた。
1983年のセンバツでは、明徳は1回戦で、青森北高校を10対0と圧倒した。先発した山本は7回を3安打に抑え、8回には福原が、9回には近田が投げ、完封リレーとなった。近田は無安打、無四球で三振2を奪った。この後の明徳は、上宮(7対1)、佐世保工業(8対0)と破ったが、近田の出番はなかった。続く準決勝で、優勝した池田に敗れたが(1対2)、この試合も山本が完投した。
夏の県予選でも、近田は相変わらず3番手だった。明徳は準決勝で、津野(後に日ハム)がエースを務める高知商業に敗れ、甲子園出場を逃した。この試合も山本と福原の継投だった。
卒業後、近田は本田技研鈴鹿に4年にわたり在籍した。粗削りなままだったので無名だったが、1987年頃には、常に140キロ台半ばの速球を投げるようになった。1987年秋のドラフト終了後、明徳の監督の紹介で、南海の入団テストを受け、合格した。南海の中継ぎ左腕は、中条ぐらいしか戦力になっておらず、期待されたのだった。ところが合格後、実は右でも投げられる(とはいえ下手投げで120キロ台)と語ったことから、たちまち時の人となり、「6本指グローブでの左右投げ登録者」として話題をさらった。
実際、(右投げは封印されたものの)左腕からの速球で、紅白戦・オープン戦では結果を残した。が、公式戦では1試合に投げただけで(1回で1失点)、守備や牽制の力量不足を指摘され、開幕直後にファーム落ちした。ファームでは勝ったり負けたりだったが、2年目(ダイエー1年目)にはアメリカ留学メンバーに選ばれるなど優遇された。が、以後は故障もあり、阪神への移籍後も1軍では投げることのないまま引退した。
1984年度に3年生−
【湯上谷宏】(1982年夏●、1983年春○●、1984年春●・夏●)
湯上谷が入学した石川県の星稜高は、1979年夏には箕島高と延長18回の激闘を演じ、1980年秋の神宮大会では優勝を果たすなど、急速に力をつけつつあった。湯上谷は富山県から星稜に野球留学し、1年生から3年連続で甲子園に出場した。
まず1年生(1982年)の夏には、背番号は14番だったが、そのセンスを見込まれて予選から8番・ショートで起用された。予選決勝の金沢高戦では、無安打ながら2打点をあげ、甲子園への出場に貢献した。もっとも、まだ打力不足で、県大会での打率は.133にすぎなかった。
甲子園では、初戦(2回戦)で、荒木大輔の早実高と対戦した。荒木はこの年3年生で、早実は優勝候補の本命だった。星稜は2年前の神宮大会決勝で、当時1年生の荒木を打ち崩して優勝したのだが、この年は全く歯が立たず、1対10の大差で敗れてしまった。湯上谷は1打数無安打で、5回には追加点のきっかけをつくるエラーをしてしまい、途中で3年生に交代した。
その年の秋に新チームが結成されると、湯上谷はトップバッターを務めることになった。そして北信越大会を制し、翌年のセンバツへの出場を決めたが、湯上谷は.461の打率を記録した。100メートル11秒台の俊足とともに、俄然注目される選手になってきた。2年生のセンバツ(1983年)では、1回戦で熊本工業を11対4と圧倒した。湯上谷は2打数2安打、3四球と活躍し、2回に放った三塁打は逆転のきっかけとなった。が、2回戦では横浜商業の三浦将明(後に中日)に完封され、0対1で敗れた。湯上谷は4打数無安打、1失策といいところがなかった。
夏の大会でも、星稜は甲子園への最短距離にいた筈だった。ところが、準決勝で金沢高と延長17回を戦った疲れのためか、翌日の決勝戦ではまさかの敗北を喫してしまった。相手の小松明峰高は、この年まで予選でも未勝利の高校だったが、7回にまさかの逆転を食らい、そのまま押し切られたのだった。
その秋からの新チームでは、湯上谷は3番を打つことになった。そして、石川県予選を難なく勝ち抜き、北信越大会でも圧倒的強さで地区優勝した。11月には神宮野球大会に出場したが、この1回戦でも、鳥取商業を12対3と圧倒した。続く京都商業との試合では、湯上谷は先発のマウンドに立ち(!)、まずまずの好投を見せた。ところがこの試合は終盤に大荒れになった。星稜が9回表に9点をとり、10対3とリードしたのだが、その裏に同点にされ、延長戦の末に10対11での敗戦となった。
投手は余技だったろうが、湯上谷は新チーム結成以後、.511という高打率を残していた。「抜群の運動神経」を持つ選手として、早くもドラフトの上位候補とされるようになっていた。ところが、3年生のセンバツ(1984年)では、1回戦で佐世保実業にあっさりと敗れてしまった。相手投手の吉田直喜(後にオリックス入り)に完封され、湯上谷も4打数無安打に終わった。
最後の夏、湯上谷は県予選で打率.421を記録し、4度目の甲子園にやってきた。ここまで甲子園では1勝3敗、11打数2安打という成績に終わっており、もう少し活躍したいところだった。ところが、またも1回戦で別府商業に敗れてしまった(スコアは2対3)。湯上谷は4打数1安打、1打点という成績だった。
この年の秋に、南海が2位指名をして、湯上谷はプロ入りした。南海としては、2年生の頃から注目し、期待していた選手だった。そして、南海では順調に成長し、やがてレギュラーに定着した。
【田口竜二】(1984年春○○○●・夏○○●)
桑田・清原がPL学園の2年生だった1984年、その最大のライバルと目されたのが、都城高の左腕・田口だった。186センチの恵まれた体から、角度のある速球と大きく曲がり落ちるカーブを繰り出し、前年秋の九州大会を制していた。同大会では3試合で自責点はゼロであり、1学年下の田中幸雄(後に日ハム)らを従えて甲子園に乗り込んできた。
が、田口はセンバツの直前から肩を痛めており、決して満足なコンディションでPLに相対することはできなかった。1日150球の投げ込みのせいで、3月になってから痛みを覚えていたのである。春の甲子園では、まず和歌山工業と対戦し、延長10回を2失点に抑えた。が、肩のせいもあり奪三振は僅か2つで、制球も悪かった(スコアは4対2)。2回戦の私神港戦では、速球を捨てて制球を重視し、9回を1失点に切り抜けた(スコアは3対1)。準々決勝では名電を2点に抑え(スコアは3対2)、翌日のPL戦に臨むことになった。田口は、PL打線を延長11回途中まで5安打、無失点に抑えた。が、ライトの落球でサヨナラ負けを喫してしまった(スコア0対1)。これは2死1塁からの平凡なフライであり、田口も呆然としたようである。
この後も肩の状態は悪かったが、針治療などでなんとか持ち直した。また、神経性胃炎にも悩んでいたようである。それでも夏の県予選では4試合に投げた。最後は3連戦だったが、41回を投げて被安打は僅か15本、さらに49三振を奪う力投を見せた。ただ、四死球は14とやや多かった。
夏の甲子園では、1回戦で足利工業を1点に抑えた。三振も14を奪う力投だったが、試合中に胃炎が再発するアクシデントもあったようである。続く2回戦では、長浜高から11三振を奪ったが、エラー絡みで2点をとられ、4失点を喫した(スコアは7対4)。制球も今一つで、5四球を与えた。
PLとの再戦は、その2日後の3回戦で行われた。が、エラーが続出し(全部で6つ)、序盤から大差がつく試合展開になった。自責点は2だったが、13安打を打たれてスコアは1対9となった。制球力がなく、カーブに頼ってこれを狙われた結果だった。
南海はこの田口をドラフトで1位指名した。順調に育てば、将来はエースになれる大器と見込んでのことだった。が、結局ほとんど一軍で投げることはできなかった。肩の悪さが致命傷になったのだろうが、神経性胃炎、肺気胸など常に体調の悪さに悩まされていた。
【松崎秀昭】(1984年夏○○○○●)
熊本・鎮西高校のマウンドを2年間にわたって守った細身のアンダースローである。速球派ではないが、多彩な変化球を持つ打ちづらいピッチャーだった。全国中学校野球大会で、2試合連続ノーヒットノーランを記録し、期待されて鎮西に入校した。
1年生の秋に新チームが結成されるとエースになったが、この時には県予選であっさりと敗れてしまった。それでも2年生の春の県大会で優勝し、夏の県予選では本命と目されるようになった。が、チームの打線が弱すぎた。準決勝で東海大二高と対戦し、松崎は延長18回を7安打、無失点で投げ抜いたが、味方も1点もとれなかった。そして翌日の再試合で本塁打を打たれ、0対1での敗戦となった。
その年の秋には県予選を勝ち上がり、九州地区予選に出場した。ここで1つ勝っておけばセンバツ出場の目があったが、初戦で佐賀商業に4対5で敗れてしまった。松崎は不調で12安打を打たれ、最後は9回裏に1点をあげられてサヨナラ負けを喫した。(佐賀商業は次の試合で田口のいる都城に敗れたが、翌年のセンバツに出場した。そして初戦で名電高に敗れた)
3年生になった当初コントロールを乱していたが、春の県大会では復調し、決勝にまで進出した(九州学院高に敗退)。続く九州大会では優勝し、夏の県予選は、鎮西、九州学院、熊本工業(後に巨人入りした井上真二がいた)の争いになると見られた。
松崎は、初戦の多良木高戦では2点をとられたが、その後は3戦連続で完封し、決勝戦に駒を進めた。既に九州学院は敗れており、相手は熊本工業だった。松崎は11安打を打たれたが、2つの走塁ミスがあり相手を2失点に食いとめた。結局試合は4対2で鎮西の勝利となった。予選での松崎は、45回を投げて被安打は33、奪三振は29、四死球は僅か6、失点は5という成績だった。特にコントロールのよさが際立っていた。それでも、打線が弱いため、鎮西は全国優勝候補とは見られなかった。
1回戦では高崎商業と対戦した。高崎は強打のチームだったが、松崎の変化球とコーナーワークが冴え、4安打1失点に抑えた。試合は3対1での完勝だった(ただし試合後、鎮西はマナーが悪いとして大会本部に厳重注意を受けた)。
2回戦は沖縄水産との対戦だった。相変わらず味方打線は弱く、試合は1対1のまま終盤に突入した。8回に勝ち越し、なんとか2対1で勝利を収めた。松崎は被安打5で自責点は0だった。続く3回戦も、法政一高を相手に1対1のまま延長戦に突入し、10回に勝ち越して2対1で競り勝った。松崎は被安打3という好投を見せた。
翌日の準々決勝は岡山南高との対戦となった。同校も強打のチームだったが、松崎は6安打で2失点(自責点0)と抑え、5対2での勝利となった。ここまで37回を投げて被安打18、自責点2という素晴らしい成績だった。
ベスト4に残ったのは、鎮西、取手二、PL、金足農業だった。後1つ勝てば桑田、清原のPLとの対決だったわけだが、準決勝で取手二高(エースは後に大洋の石田文樹、主将は後に近鉄の吉田剛)に5対18と大敗してしまった。3連投となった松崎の球には切れがなく、2回に5点を取られ逆転された。7回途中に降板した時には12安打を食らっていたが、松崎はここまで来たという満足感のある笑顔で降板した。
この年の秋に南海が4位指名してプロ入りした。が、変則フォームはプロ相手ではあまり武器にならず、変化球とコントロールだけでは競争に勝つことはできなかった。1軍では南海時代に4試合、ダイエーになってから5試合に登板しただけだった。
1985年度に3年生−
【広永益隆】(1984年春○●・夏●、1985年春●・夏○●)
広永は桑田・清原と同学年で、4季連続で甲子園に出場していた。前年までの徳島県は池田高校の天下だったが、広永の徳島商業はそれに挑み4回の出場を勝ち取った。
もともと広永は、応神中学時代に野球をしていたが、100メートル走で四国3位になったことがあった。そして徳島商へも陸上競技をするつもりで進学したが、父の説得で野球部に入ったのだった。
1年生の秋(1983年秋)に新チームが編成された時、広永は3番・ライトに抜擢された。小柄ながらパンチ力があり、強肩・俊足でもあった。徳島商は県予選の準決勝で、甲子園帰りの池田高とぶつかった。この時の池田は、水野・江上が抜けたばかりで、1年生の片山がエースを務めていた。試合は打撃戦となり、徳島商は6対7で敗れてしまった。池田は結局徳島代表となり、四国大会に出場したが、新浜高専を11対1と圧倒した後、丸亀商業に12対13と敗れた。順当にいけば、センバツには四国ベスト4の明徳、丸亀商業、松山商業、池田が出場するところだった。が、池田が不祥事(部員の飲酒)で出場辞退したので、徳島県からは「池田に引けをとらない」として徳島商が選ばれた。
広永は、新チーム結成以来の打率は.341であり、気鋭の3番打者として甲子園に乗り込んだ。そして1回戦の愛知高戦では、初回に同点三塁打を放ち、4回には犠牲フライを打つなど2打点をあげる活躍をした(3打数1安打、2打点、1四球)。試合は9対1で徳島商が圧勝した。
続く2回戦では、ベスト4入りした取手二高と対戦した。投手の石田文樹は、夏の決勝戦でPL打線さえ封じた豪腕だったが、広永は4打数3安打と打ちまくった。しかも7、9回のヒットは得点に絡む価値あるものだった。が、試合は2対4での敗戦となった。
センバツから戻ると、春の四国大会への代表決定戦に、池田が待ち構えていた。徳島商は2対1とこれを下し、四国大会でも丸亀商業を圧倒した。この丸亀商戦では広永は2番手投手として登板している。が、決勝戦では高知高に1対5と敗退した。
夏の県予選では、決勝で池田と激突した。広永は1回裏に同点2ランを放つなど3打数2安打で3打点をあげ、結局7対5で池田を振り切った。広永は前日の準決勝でも本塁打を放っており、2試合連続で本塁打を打ったことになる。広永の予選での打率は、.533という驚異的なものだった。
これで勇躍甲子園に乗り込んだが、1回戦で上尾高と対戦し、延長10回の攻防の末に3対4で敗れてしまった。広永は5打数1安打にとどまった。
秋に新チームが編成されると、広永は打順は3番のまま投手を任されることになった。一応130キロ台の速球を投げたが、多彩な変化球、特にシュートこそが投手・広永の武器だった。秋季県予選では、小松島西を相手に1対0という薄氷の試合もあったが、なんとか決勝まで勝ち上がった。ここで対戦したのが、片山・宮内(後に阪神)の池田だった。試合は徳島商ペースで進んだが、7回に追い上げられ、結局7対6でなんとか競り勝った。そして共に四国大会に出場することになった。
四国大会では、徳島商が高瀬を2対1と下し、池田も八幡浜を3対0と下した。が、準決勝では徳島商は明徳に2対3で敗れた。池田も伊野商業(エースは後に西武に入った渡辺智男)に1対4と敗れ、ベスト4にとどまった。それでも両校共に選ばれて、1985年のセンバツに出場することになった。
新チーム結成以来、広永は打率.411だったが、投手としての防御率は3.02と並の数字だった。広永自身も、打撃の方が好きだと広言していた。1回戦では鹿児島商工と対戦し、5回まで無失点に抑えたが、6回に自らの2失策をきっかけに5点を取られてしまった。まず四球を与え、そこからバントヒット、バントを悪送球(広永の失策)、バントをお手玉(広永の失策)、2塁打・・という展開だった。広永はこの回以外は完璧な投球をしていたが、結局1対5での敗戦となった。
一方で池田はベスト4まで勝ち上がったのだから、徳島商としては無念だったろう。
センバツから帰った直後、春の四国大会への代表決定戦では、徳島商はこの池田を破って雪辱した。が、その後に前年秋に苦戦した小松島西と対戦し、4対4から逆転されて4対6で敗れてしまった。
夏の県予選では、池田と共にこの小松島西がライバルになるものと見られた。そして大会が始まったが、なんと徳島商は、初戦(2回戦)で池田とぶつかることになった。5000人の観衆を集めたこのゲームは、3回に宮内に3点弾を浴びるなど苦しい展開だった。が、3対3に追いついて延長にもつれ込み、最後は徳島商が10回裏にサヨナラ勝ちを収めた。池田は広永のシュートにひっかかってしまったようである。
この後、苦手の小松島西も早々に敗退したので、徳島商は比較的楽に県大会を制した。唯一苦しんだのは準決勝の生光学園戦で、終盤まで2対2だったが、8回裏に4点を入れて突き放した。決勝の鳴門工業戦は、相手のエース・田淵が延長戦で疲労していたこともあり、8対2と快勝した。広永は初回に先制2ランを放ち、8回にも2本目の本塁打を放った。
こうして4期連続で甲子園にやってきた徳島商は、PL(桑田、清原らがいた)、高知商業(後に大洋の中山裕章がいた)、銚子商業(後に中日の片平哲也、後に大洋の大川隆がいた)に続く優勝候補と見られることになった。そして初戦では、東邦高に18対8と打ち勝った。広永は右わき腹を痛めていたこともあり、初回に4点を奪われたが、以後は変化球でかわした。打つ方では3打数2安打(二塁打1)、3四球、1盗塁という大活躍だった。
2回戦は、春に敗れた鹿児島商工との再戦となった。徳島商は4回に1点を先制したが、6回2死1、3塁から三塁打を打たれ、ワンチャンスで逆転されてしまった。広永は6回に二塁打を放ったが、味方打線がチャンスを潰し続け、結局1対2で押し切られた。広永はこの試合、4打数1安打(二塁打1)だった。
広永はその打撃が見込まれて、同年秋のドラフトで南海に3位指名された。南海時代の3年間はファームで過ごし、ダイエー1年目から、勝負強い左打者として活躍することになった。
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