ちょっとした投手列伝


金城基泰というピッチャー

 1980年代前半の南海のリリーフエースといえば、なんといっても金城基泰である。1985年に巨人に去るまで、弱いチームを支えて奮闘したサブマリンだった。1979、1980年には最優秀救援投手になったが、南海の順位が5、6位だったことからすると、勝ち星に占める貢献度の大きさを容易に想像できる。
 金城は、1974年に広島で20勝をあげ、最多勝に輝いたこともある。ところがそのオフ、交通事故に巻き込まれて両目の大手術を受けた。この話は、今さら蒸し返すのも辛いので書きたくなかったが、この程文庫化された後藤正治『スカウト』にいい話が載っていたので、少しだけふれることにする。
 金城は両目にガラス片を受け、失明の危機を迎えた。動いてはならず、あくびさえも許されない絶対安静の期間を経て、半年後に退院し、特殊なコンタクトレンズを嵌めて復活することになった。しかし、前ほどの豪速球はついに戻らなかった。それでも金城は、事故がなかったらと聞かれて、「生意気のまま終わったかもしれない」「ちらっとだけど大事なことを知った」と答えたというのである。こんな話を聞いてしまうと、金城がいくら打たれても責めようなどとは思えなくなる。
 ところで同書では、金城の変化球は最後まで、少し曲がる程度のチェンジアップ(気味のカーブ)しかなかったとされている。また、細かいコントロールを気にするタイプではなかったとされる。金城は、31歳を迎える1983年のシーズンから急に打たれだしたが、球威で勝負するタイプなら仕方がないことだったろう。奪三振率も、1981年には9回平均で10.5、1982年には7.5だったのが、1983年には4.6と低下している。
 この時期の『週刊ベースボール』を見ても、球威の低下と変化球が苦手であることが指摘されている。技巧派に転ずるには変化球が必須なのだろうが、うまくコントロールできないまま終わってしまったということだろうか。


山内孝徳というピッチャー

 山内孝こそが、どん底期の南海のエースだった。チームが弱く、勝ち星が負けを上回るシーズンは稀だったが、いつも黙々と投げ続けていた(ヤクルトの尾花とイメージが重なる)。毎年、登板した試合の半分近くを完投し、全くこの人がいなければどうなっていただろうと思わせられる。いかつい風貌と髭、グローブへの「麦魂」という刺繍など、いかにも男臭いタイプに見えたが、近年は解説者としてベタベタなおどけぶりを見せている。現役時代にも、オフのゴルフ番組でもおどけた姿が確認できており、意外にそういうタイプだったようである。
 性格はともかくとして、山内孝の投球については、四球が非常に少なかったことを指摘できる。全盛期(1981〜1986年)には、9回平均で1.4個の四球しか与えておらず、わりと多目だった山内和とはコントラストをなしていた。山内和は、コントロールはよいのに粘りすぎて四球を出す傾向があったようだが、山内孝の少なさもまた異様である。なにせ、この時代に最もコントロールがよいといわれた北別府でさえも、平均2個ぐらいは四球を与えていたのだから。
 ではなぜ、ここまで少なかったかということになるが、1988年頃の『週刊ベースボール』に次のような記事がある。山内孝には勝負を挑みすぎて、ホームランを打たれる傾向があるというものである。確かに山内孝は、被本塁打が多かった。北別府が9回平均1本だったのに対し、1984年には1.4本、1985年にも1.4本、1986年には1.7本である。どうも、四球を嫌がって勝負を挑む結果が、このような数字に表れていることになりそうである。
 なお、山内孝の最大の武器は、切れのよいシュートだった。速球は、全盛期でも140キロ出るか出ないかという程度だったが、この武器でパ・リーグを代表するピッチャーの1人になったのである。

 余談だが、山内孝は山内和と不仲だったという話がある。ことの真偽は不明だが、1982年前半の打者との対戦成績を見ていると、2人のカモと苦手が全く対照的だということに気づいた。性格が合わないというのも、妙に納得させられる・・。

対クルーズ→(山内孝)21打数10安打と打ち込まれる。(山内和)12打数1安打とカモにする。
対柏原→(山内孝)18打数8安打と打ち込まれる。(山内和)11打数2安打とカモにする。
対石毛→(山内孝)11打数0安打とカモにする。(山内和)22打数8安打と打ち込まれる。
対大田→(山内孝)10打数0安打とカモにする。(山内和)18打数6安打と打ち込まれる。
対立花→(山内孝)10打数2安打とカモにする。(山内和)20打数8安打と打ち込まれる。


西川佳明というピッチャー(その1)

 西川は、PL学園のエースとしてセンバツで全国制覇(1981年)、法政大学では六大学記録の16連勝を含む30勝(昭和40年代以降では江川に次ぐ勝ち星)と、輝かしい球歴を持っていた。ただし球速がなかったため、プロでの評価は高くなかった。1985年秋のドラフトでは1位候補と目されず、阪神が2位ぐらいで指名するものと見られていた。南海に1位指名で入団した後も、中継ぎで起用されるという見方が一般的だった。
 しかし1年目(1986年)には、ローテーションの柱として10勝10敗1S(防御率3.87)という好成績をあげた。打線・守備にハンディを負いながらの10勝は、清原がいなければ新人王と言われた。大学時代にはシュートが得意だったが、それが通用しないと見切りをつけ、新たに覚えたスライダーが効果的だったのだ。この他には、ナックルという武器も持っていた。
 が、西川が一線級の投手として活躍できたのは最初の3年間だけだった。コントロールと緩急で勝負するタイプだったため、少し調子が悪いとたちまち打ち込まれた。このムラは、既に1年目から現れていた。前半は2.99だった防御率が、後半戦に大崩れすることが増え、3点台後半まで下がったのだ。2年目も波が大きく、3年目も、序盤にKOか完投かという両極端なピッチングになっていた。
 以前、同じく技巧派の小宮山投手について聞いた話がある。初回にうまくコントロールが決まれば、後は調子よく乗り切っていける。しかし、初回に思ったように決まらないことを意識すると、後はメロメロになってしまうのだという。西川にもこのようなメンタリティーがあったのだろうか。


西川佳明というピッチャー(その2)

 その後調べてみたが、西川の不安定さは、実は大学時代からのものだったようである。法大での通算30勝5敗という成績は、いかにも安定感があったように見えるが、少し掘り下げてみると、実は意外に波があったことがわかる。
 例えば、4年生(1985年度)秋の最後のシーズンである。このシーズン、西川は4勝1敗、防御率1.73という好成績をあげた。しかし、細かく見るとほとんど1試合おきに好調と不調の波が行き来していた。
 9月14日の東大戦では、9回6安打2失点(勝)とまずまず好調だったが(失点は不運なヒットのせい)、28日の慶大戦では、9回9安打3失点(敗)と乱れている。この後10月5日の立大戦では9回5安打1失点(勝)、7日の立大戦ではリリーフで3回1安打0失点と好投した。しかし19日の早大戦では、9回9安打3失点(勝)と乱れてしまった。試合には勝ったが、西川の弁はまるで敗戦投手のもののようだったらしい。
 しかし21日の早大戦では、一転して2安打完封と好投し、通算30勝目をあげている。最後の登板となった28日の明大戦は、リリーフで4回を投げ、4安打1失点とあまりよくなかった。

 なお、1985年のシーズンで対戦した六大学の他のチームには、次のような選手がいた。まず早大には石井浩郎(3年)がいた。三塁を守り、主に5番を打っていた。石井はその後、社会人のプリンスホテルを経て近鉄に入団する。また、2年後に近鉄入りする加藤正樹(2年)も外野を守っていた。次に、立大には長嶋一茂(2年)がいた。三塁を守り、4番を打っていた。2年後に、ドラフト1位でヤクルトに入団する。後に日ハムに入る矢作公一(1年)も、このシーズンに代打で出場していた。
 明大には福王(4年)がいた。秋のシーズンには打率.474で首位打者、二塁を守って4番を打ち、ドラフト5位で巨人に指名された。また武田一浩(2年)が、既にエース格になっていたが、2年後にドラフト1位で日ハムに入団する。それから慶大には、捕手の石井章夫(3年)がおり、主に6番を打っていた。石井は翌年、大洋から2位指名を受けたがこれを拒否した。エースの鈴木哲(3年)も、プロ入りを拒否していたが、結局社会人を経て西武に入団することになる。
 このような各チームに比べて、法大の選手層の厚さは一段上だった。西川の他、若井基安(4年)が二塁を守り、3番を打っていた。若井は日本石油を経て、南海で再び西川のチームメートになる。また捕手の高田誠(3年)は、翌年巨人に3位指名された。猪俣(3年)も阪神に1位指名され、呉俊宏(2年)は2年後にドラフト外で大洋に入った。秋村謙宏(2年)も、社会人を経て広島に入団する。
 遡ってみても、西川が1年の時には、田中富生、木戸克彦、西田真二と錚々たる4年生がいた。2年の時には、小早川毅彦、銚子利夫がいた。3年の時には、秦真司、島田茂、山越吉洋がいた。西川の30勝は、このチームメイトに支えられたものでもあった。


井上祐二というピッチャー

 井上は南海末期のリリーフエースで、ダイエー1年目には最優秀救援投手のタイトルを獲得した。都城高時代から重心の低いフォームで力強い速球を投げ込んでおり、1980年秋のドラフト2位で南海に入団した。2年目(1982年)にはファームで6連勝し(その間の防御率1.91)、シーズン半ばに早くもローテーション入りを果たした。この年には、5勝9敗0S(防御率4.08)という成績を残している。翌1983年には6勝10敗3S(防御率5.21)で既定投球回数に達している。たまに大崩れしたが、防御率のわりに安定感があり、先発にリリーフにと大車輪の活躍をしていた。井上は2年目に覚えたチェンジアップを、この頃から有効に使っていた。
 このまま順当にいけば、山内孝、山内和に続く投手になる筈だったが、1984年の序盤に肝炎で倒れ、このシーズンをほとんど棒に振った。復帰をかけた翌1985年には、2勝13敗0S(防御率5.40)という成績に終わったが、まだ体調が悪かったのだろうか。この年は藤本修と共に、負けても負けても登板した格好である。
 転機となった1986年のシーズンも、出だしは決してよくなかった。夏場まで4勝7敗0Sという成績で、もう井上はこの程度の投手として終わっていくかに見えた。が、フォーム改造(体重を残す形のフォームにした)が奏効し、次第にコントロールがよくなった。そして、8月にリリーフに定着した後は、0勝1敗11Sという好成績を残すに至った。1敗は、規定投球回数に到達を狙って最終戦に先発した時のものなので、抑えでは1敗もしなかったことになる。
 そして1987、88年に絶対的なリリーフエースとしての信頼感を得て、1989年には最優秀救援投手に輝いたのである。
 が、その井上も、1993〜94年頃には速球のスピードが極端に落ち、変化球だけでは通用しなくなってしまった。井上の選手生命の、二度目の危機である。しかし広島への移籍後、筋トレでスピードが戻り、見事に復活を遂げた。


山内新一というピッチャー

 1947年生まれというから、若松勉、藤田平、堀内恒夫、谷沢健一らと同い年ということになる。若い頃は、140キロ台半ばの速球に、切れのよいカーブとシュートを持ち、バランスのとれた好投手として活躍した。巨人時代にはヒジを痛めたせいで出番がまわってこなかったが、1973年に南海に移籍すると、たちまち20勝(8敗)をあげた。この後も1976年に再度20勝するなど、8度の2桁勝利を記録した。
 しかし36歳になる1983年には、急激に球威が落ち、変化球の切れも鈍ってしまった。この年、2勝(9敗)にとどまった山内は、そのまま阪神に無償トレードに出された。そこで投球術を工夫して、1984年には7勝をあげ復活した。が、1985年にはほとんど出番がなく、そのまま引退となった。
 1970年代のパリーグは、各チームにいかにもエースらしい大物投手が在籍した。阪急には山田久志、近鉄には鈴木啓示、ロッテには村田兆治、日ハムには高橋直樹、クラウン(西武)には東尾修がいた。山内新は彼らとわたりあい、通算143勝をあげたが、そのわりに地味な存在だった。これは、大口を叩かないその性格にもよるのだろうが、投球スタイルにも起因していたように思われる。標準的なオーバースローで、投球に目立ったアピールポイントがなかったのである。
 例えば山田は、芸術的なアンダースローに必殺のシンカーを持ち、日本シリーズで巨人の前に立ちはだかった。鈴木は根性論のキャラクターがユニークで、完投へのこだわりという話題性もあった。村田は「まさかり投法」にフォーク、そして腱移植手術からの復活というドラマを持っていた。高橋はアンダースローに髭を生やし、西武に移籍してから3度の日本シリーズ出場した。東尾はビーンボールという必殺技(?)を持ち、強くなった西武でエースの座に君臨した。これに比べて山内は、なんとも地味だった。
 引退後、山田、鈴木、東尾は監督になり、村田、高橋はコーチや解説者になった。山内は野球界とは縁を切り、ゴルフ場に勤務することになった。


中条善伸というピッチャー

 64キロ(1987年)という細身の体をしならせ、左腕から大きなカーブを繰り出すピッチャー、それが中条だった。肩・ヒジの状態が悪く(高校時代からの持病だったらしい)、ついに大成することはなかったが、連日の力投はファンの心に残るものだった。
 その中条は、むしろ高校時代(東北高校)に全国の注目を集めていた。2〜3年生の時に4季連続で甲子園に出場し、汗と涙の人間ドラマを見せてくれたのである。
 まず2年生のセンバツでは、初戦で下関商業と対戦した。この試合が公式戦初登板だった中条は、2回途中までに5四球を与えてしまい、敗戦の原因をつくった。特に2回の4連続四球は、チームの士気を削ぐものだった。
 その中条は、夏の大会ではエースとして宮城県大会を勝ち抜き、甲子園に戻ってきた。5試合、31回を投げて3失点、40三振を奪っての堂々の出場だった。決して剛球投手ではなかったが、カーブと速球のコンビネーションが冴えていたのである。ところが本大会では、またも乱れてしまった。
 初戦の相手・済々黌に、いきなり押し出しで3点を献上したのである。その過程を再現すると、1番→ピッチャーゴロを中条がエラー、2番→バントを中条が野選、3番→送りバント、4番→四球、5番→四球(1点)、6番→二塁ゴロエラー(1点)、7番→ショートゴロ、8番→四球(1点)、9番→四球(1点)・・というものだった。中条はここで一旦降板し、後でもう一度マウンドに上がったが、その時にも5人に4安打、1四球と1死もとれなかった。結局試合は5対18という大敗に終わった。
 この後、中条はフォームをスリークオーターに変え、秋季大会で勝ち抜いて再びセンバツにやってきた。1980年春のことである。相変わらず地方大会では無敵であり、146回を投げて157三振を奪い、防御率は1.54と安定していた。ところが、大会前にまたもストライクが入らなくなり、初戦の松江商との試合では先発を外されてしまった。10対1でリードした9回に登板したものの、4人に投げて1安打3四球であり、1死もとれないままマウンドを降りることになった。そのまま次の試合(丸亀商戦)でも登板はなく、チームも敗れてしまった。
 中条はここで再びフォーム改造に踏み切った。ステップを小さくしてコンパクトなフォームにした結果、宮城県大会では37回2/3で4四球と劇的にコントロールがよくなった。奪三振も43個であり、失点は僅かに1だった。
 そして夏の本大会では、1回戦で瓊浦(長崎県)と対戦し、これを2安打13三振と完封した。四球は0であり、新聞でも中条の成長は絶賛された(ちなみにこの時の相手の投手は、オリックスで活躍した本西)。続く2回戦でも、強豪・習志野を4安打で完封した。球も低めに集まり、四球も2つだけだった。
 3回戦では浜松商業と対戦したが、自らの牽制悪送球やセカンドのエラーもあり、5回に追いつかれてしまった。さらにスタミナが切れた7回に痛打を浴び、結局4対6での敗戦となった。
 それでも、この成長ぶりに巨人が注目し、中条はこの年秋にドラフト外でのプロ入りを決めた。その後、1985年からは南海の中継ぎとして渋い働きをした。先発の役目がまわってこなかったのは、細身ゆえにスタミナ不足と見られたからだろうか。


藤田学というピッチャー

 高校時代には、部員10人の南宇和高(愛媛県)のエースとして、春の県大会でノーヒットノーランを達成し注目された。夏の県予選でも、西本聖がいた優勝候補・松山商を完封したが、準決勝で今治西に敗れた。
 同年(1973年)秋に、「江川2世」との触れ込みで南海に1位指名された。大事に育てられて、ようやく3年目(1976年)に1軍デビューを果たした。そしていきなり、11勝3敗(防御率1.98)の成績で新人王に輝いた。「恐怖の足首」「馬」の渾名からも窺えるように、恵まれた体から馬力のある速球を投げ、コントロールも良かった。変化球ではブレーキのきいたカーブを武器としていた。
 その後、2年連続で16勝(1977年、1978年)し、山内新一からエースの座を奪ったかに見えた。が、6年目の開幕戦で右足内転筋を痛めてしまった。このために2勝、3勝と低迷し(1979年、1980年)、チーム低迷の原因をつくってしまった。
 8年目(1981年)にはやや回復し、もとのステップ幅に戻した。そして序盤に勝ち星を重ねた。夏場以後、肥満で体のキレが悪くなり失速したが、この年はなんとか13勝をあげた。その後、若くして中年体型になったまま浮上できず、9年目(1982年)の勝ち星は6つに終わった。この年のオフには、大洋とのトレード話も成立寸前までいった。
 10年目(1983年)には、前半戦ではローテーションを担ったが、それは5回をメドにした登板だった。序盤で大量失点を食らうことも多く、2勝6敗という成績のまま、7月にはファームに落とされた。これで藤田学の先発投手としての選手生命は、事実上終わった。
 この後、1986年まで現役を続け、3勝を追加したが、もはやかつて速球投手・藤田の姿はなかった。その技術で遅球を補い、たまに好投することもあったが、それが続くことは少なかった。最後の年には1試合に登板しただけで、指導者へと転身することになった。



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