1988年の南海ホークス(前編)
ドラフト会議
1987年のシーズン終了後、10月26日から11月10日まで、呉で秋季キャンプが行われた。この時、8人部屋に3人ずつ起居するというひどい待遇に、選手会が改善を要求するという一幕があった。また、期待の田嶋はウエートトレで右肩を痛めてしまった。
この年のドラフト会議は11月18日に行われたが、南海の1位指名については憶測が飛び交った。杉浦監督は、立教大学の長島一茂を獲得する希望を出していたが、父の茂雄が乗り気でなく、11日には即戦力投手に切り替えるとのコメントがなされた。さらに12日には、スカウトがPL学園の立浪に会い、「前向きな姿勢」を聞き出した。ところが13・14日のスカウト会議では、やはり長島指名の方針が確認されることになった。
はたして強行指名があるのか、それとも立浪か、鈴木哲(慶応大学)かと言われた1位指名だったが、実際に南海が指名したのは立浪だった。ところが中日との籤引きに敗れ、外れ1位で吉田豊彦(本田技研熊本)を指名することになった。さらに2位についても、小川浩一(日本鋼管福山)を日ハムに奪われ、若井基安(日本石油)の指名になった。3位は柳田聖人(延岡工)、4位は大洋との競合の末に大道典良(明野高)、5位は吉永幸一郎(東海大工)、6位は村田勝喜(星陵高)である。
他球団の主な指名(入団)選手は次の通り(青色は2003年現役)。阪神→(1位)野田浩司、(3位)山田勝彦、(ドラフト外)亀山努、大洋→(1位)盛田幸妃、(2位)岡本透、(3位)野村弘、(4位)清水義之、ヤクルト→(1位)長島一茂、(3位)鈴木平、(6位)城友博、広島→(1位)川島堅、中日→(1位)立浪和義、(3位)上原晃、(5位)音重鎮、巨人→(1位)橋本清、西武→(1位)鈴木健、(2位)上田浩明、阪急→(1位)伊藤敦規、(2位)山内喜弘、(4位)伊藤隆偉、日ハム→(1位)武田一浩、(2位)小川浩一、(6位)芝草宇宙、(ドラフト外)島田直也、ロッテ→(1位)伊良部秀輝、(3位)堀幸一、(6位)大村巌、近鉄→(1位)高柳出己、(6位)木下文信。
吉田豊彦はそれ程に注目された選手ではなかったが、常時140キロは出せる左腕であり、それなりの成績は残すものと期待された。12月3日に、契約金5500万円で入団が内定し、若井も18日に仮契約を済ませた。この他、12月5日にテストした近田豊年(本田技研鈴鹿)も、その速球に期待され、22日に「左右投げ投手」として大々的に入団発表を行った。
その一方で、青山、竹口、大津への解雇通告が、ドラフトの結果を見定めてからのものになったため、他球団のテストを受けにくい状況になり、球団は批判されることになった。また、現役続行を希望していた定岡も、トレード先が見つからないまま引退し、2軍の育成コーチになった。
香川の減量
この他、オフに話題になったのが、例年のごとく香川の減量だった。130キロにまで膨れ上がった巨体は、もはや野球選手のそれではなかった。自主トレを免除する代わりに2ヶ月の入院が命じられ、なんとか100キロ近くにまで戻すことに成功したのだった。
また、球団が年俸をなかなか上げようとせず、その交渉に保留者が相次いだのも例年通りだった。チーム成績が上がり、観客動員も前年の1.5倍になったにもかかわらず、依然として球団の「しぶちん」ぶりは続いていた。中継ぎで活躍した中条などは、現状維持の800万円を提示された程だった。この結果、矢野、西川、井上、河埜、高柳、中条、森脇、山内和、吉田博、藤本修、門田、山本と保留が続き、山内孝と山村の交渉は越年するに至った。
なお、年末に定まった首脳陣の陣容は次の通り。1987年のものとそれ程代わっていない。投手コーチ・中西邦之、打撃コーチ・長池徳士、守備走塁コーチ・藤原満、桜井輝秀、バッテリーコーチ・鈴木孝雄、トレーニングコーチ・土手本勝次。2軍は監督・柴田猛、投手コーチ・藤田学、打撃コーチ・元田正義、守備走塁コーチ・立石充男、池辺厳、育成コーチ・定岡智秋、バッテリーコーチ・和田徹、トレーニングコーチ・田村征男。
新外国人問題
南海は例年、新外国人を早目に決めていた。が、このオフには(ブレイザーを仲介にしなかったこともあり?)ややもたついた。シーズン終了後、ハモンドは早々に解雇したが、デビッドについては二の足を踏み、来期の契約を結ばないことは、11月10日になってようやく明言された。
この後、長池コーチが渡米して、ヤンキースのレン・サカタ(33歳)、エンゼルスのマーク・ライアル(27歳)に接触した。サカタとの契約は内定寸前まで行ったが、杉浦監督がその長打力のなさに難色を示し、結局保留になった。またライアルについても、(杉浦の要請で?)より長打力があるランディ・ミリガン(26歳、パイレーツ)との交渉に変更された。ミリガンは1987年の3Aの二冠王(.326、106打点)であり、1990年にはメジャーで.265、20本塁打を放つことになる若手だった。彼に目を着けたのは正解だったが、結局金銭面で折り合いがつかなかった。
この時交渉に当たった泉谷代表は、既に年が明けていたために手ぶらで帰国するわけにもいかず、2Aジャクソンビルのジョージ・ライト(30歳)と仮契約を結んだ(1月20日発表)。2Aの選手だということで批判の声も上がったが、ライトはケガをする前には大リーグでレギュラーを務めていた選手だった。1983年にはレンジャーズで.276、18本塁打の成績を残し、その後も1986年までは常に100試合以上の出場を続けていた。1984年に膝を痛め、成績は下降していたが、それが治ったと判断し、年俸2560万円で契約したのだった。
泉谷代表は1月20日に帰国したが、この段階でもう1人の外国人としては、サカタの他にタイガーズのティモンシィ・トールマン(32歳)が候補とされていた。が、トールマンは、1987年には3Aで.314、15本塁打を放ったものの、メジャーでは毎年1割前後の打率しか残していなかった。杉浦監督は1月24日に、いい外国人が取れるなら4月、5月まで待つと語り、彼らを受け入れたくない意志を示した。
この杉浦の希望に沿い、ライトとの正式契約に渡米していた古賀通訳は、バナザード(32歳、アスレチックス)との契約に成功した。バナザードは、1979年からメジャーに定着した現役のレギュラー選手だった。1985年には.274で11本塁打、1986年には.301で17本塁打、1987年には.250で14本塁打という成績を残していた。1987年の年俸は63万ドル(7600万円)だったが、やや成績が下がったので据え置きが見込まれていた。南海は9600万円の年俸で迎え入れることに成功したのだった。南海にとっては、1978〜1981年に在籍したメイ以来の現役大リーガーであり、かなり思い切った決断だったことになる。
意外な南海人気
1986年の清原に続き、1987年には阿波野、西崎というスターが登場し、パ・リーグの人気は絶頂を迎えようとしていた。南海も1987年には88.3万人の観衆を集め、オフのファン感謝デーには8000人を動員した。加藤、森脇、吉田博、山川らの隠れハンサムぶりは一部には知られていたが、プロ野球選手の100メートル走で優勝した湯上谷も、「かわいい」といわれるなど全国区に浮上してきた。
それだけでなく、左右投げの近田に関する記事も、新聞に頻繁に躍るようになった。12月23日の新聞で入団が報じられるや、左右投げ登録を監督会議で了承(1月8日号)、特注グラブが到着(1月12日)、合同自主トレでいきなり左右投げ(1月17日)、背番号を変更し、「63」から「13」に(1月23日)、近田にギャル人気(1月25日)などと話題をさらった。近田はコントロールが悪いものの、快速球を武器として充分に戦力になるものと見られた。
1月16日からの合同自主トレに続き、2月には呉でのキャンプに移ったが、ここでドラフト1位の吉田豊も評価を上げていった。力強い速球は期待以上のものであり、紅白戦では11回を投げて被安打は4、自責点2と結果を残した。また同2位の若井も、紅白戦で29打数14安打、打率.482という成績で、評価はうなぎのぼりになった。この他、肩に不安があった加藤も状態が良く、フルシーズンの活躍が期待できそうだった。一方で、心配されたのは田嶋、藤本修だった。田嶋は秋季キャンプで痛めた右肩が、腱板炎と診断され、登板のメドがたっていなかった。また藤本修は、右足の内転筋を痛め、調整が遅れていた。
(続く)
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