1982年秋ドラフト指名の5人の投手



 1982年秋のドラフト会議で、南海は1位から5位まで5人の高校生投手を指名した。彼らは1年目から実力派として評判になり、その成長は南海再建の切り札として注目された。が、実際には、この中で飛躍できたのは藤本修二だけだった。他の4投手はなぜ成長できなかったのだろうか。ここではこの問題を考えようと思う。


畠山準(ドラフト1位、1964年6月生まれ、池田高、右投げ右打ち)
 畠山は、池田高校の甲子園優勝投手(夏の大会)として鳴り物入りで入団した。140キロ級の重い球は、高校生No.1といわれていた(蛇足だが、3年時のセンバツに出場できなかったのは、前年秋の四国大会で明徳に0対1で敗れたため)。そして早くも1年目(1983年)に頭角を現した。4月21日にウエスタンで3イニングスを無安打でデビューし、その後も4試合、10イニングスで自責点1と好投を続けた。この後、勝ち負けを重ねたが、6月15日に9回を2失点に抑えたために1軍帯同にGOサインが出た。
 6月22日の1軍デビュー戦では、1回を3人で片付ける上々のピッチングを見せた。この後、雨天中止が続きなかなか投げる機会がなかったが、8月7日の登板では2回を1安打無失点に抑えた。さらに予告先発となった8月10日には、7回まで5安打無失点と好投したが、後を受けた山内和が打たれて勝ち投手にはなれなかった。結局この年は、新人王の権利を残す配慮もあって、畠山の1軍登板は7試合に終わった。
 2年目(1984年)のキャンプでは、ワインドアップ時に反り返る癖を直すために四苦八苦することになった。前年には暫定的に、1軍ではノーワインドアップで投げていた。それを本格的に矯正しようというのだった。これは一苦労だったようだが、ぎりぎりで開幕に間に合った。そして畠山は、4月25日には先発で8回まで投げてプロ初勝利を収めた。さらに5月21日には初の完投勝利を収めた。このように投手・畠山は順調に歩みだしたが、なぜか好投する割に勝ち星は増えなかった。前半戦の防御率は2.91だったが、勝敗は4勝6敗にとどまっていた。夏場以降は腰痛もあり打ち込まれるケースが目立ち、結局5勝12敗という成績に終わった。
 3年目(1985年)のキャンプでは、腰痛を防止するためアーム式投法を矯正する予定だった。しかし畠山は水疱瘡に罹ってしまい、矯正の暇はなくなり、ぶっつけ本番でシーズンに臨まなければならなかった。キャンプ抜きによるスタミナ不足が考慮され、リリーフに回されたが、肝心なところで一発を浴びるパターンが続いた。そこで6月には急遽サイドスローに転向した。河村コーチによれば、下半身がサイドスローの投げ方なので、これで投球が安定するということだった。しかし、シーズン中の急な転向が成功する筈もなかった。結局畠山は投げ方がわからなくなり、さらにはヒジを痛めて7月半ばにはファーム落ちした。
 河村コーチはこのシーズン限りで退任し、畠山はオーバースローに戻すことにした。新任の中西コーチは、巨人の堀内の投げ方を見習うよう指示したが、それは入団時のフォームとあまり変わらないものだった。この遠回りの中でどこかがおかしくなってしまったのか、また自信の問題か、畠山は完全に調子を崩してしまった。さらに、ヒジを入れてみたり、元に戻したり、フォームをいじり続けるうちに投手・畠山は潰れてしまった。その後1988年に野手に転向したが、移籍先の横浜で開花するにはまだ時間が必要だった。

1軍成績 2軍成績
勝ー敗ーS 防御率 勝ー敗ーS 防御率
1983 29.2 0−3−0 6.07 46.1 2−2−1 3.30
1984 32 153 5−12−0 4.24
1985 13 38.2 1−3−0 4.89 34.1 4−1−0 4.46
1986 6.2 0−0−0 9.45 37.1 2−2−0 3.38
1987 10 30.1 1−4−0 6.82

1988年から打者に転向。



大久保学(ドラフト2位、1964年7月生まれ、静岡高、右投げ右打ち)
 ドラフト2位で指名された大久保は、夏の甲子園の1回戦で畠山に投げ敗けるという因縁を持っていた。スコアは2対5だったが、これは打線に差があったためで、大久保の力は1位レベルと評価されていた。182センチの長身からの速球は畠山に匹敵するといわれ、1年目(1983年)にはウエスタンで6試合に投げ、35回で3勝0敗0S、防御率2.31という数字を残した。この成績が認められ、早くも6月末には1軍昇格となった。コントロールがよく、球種も多く安定感があるとの触れ込みだった。
 1軍でのデビュー戦は6月25日だったが、2回2失点であり、以後も無失点で切り抜けるケースは少なかった。それでも7月10日には、2回2/3で2失点ながら幸運な初勝利をあげた。8月5日には初先発で5回まで1失点と好投したが勝ち星はつかなかった。以後、先発ももう1度あったが、相手を完全に抑えるような投球はできず、結局17試合で34回を投げ、2勝1敗0S、防御率4.76という成績が残った。
 それでも高卒1年目でこれだけの成績をあげたのだから、2年目(1984年)は期待された。キャンプも順調にこなし、同期生の中ではこの大久保と畠山だけが開幕1軍に残った。が、大久保は登板機会がないまま4月19日にファーム落ちし、さらに5月中旬には肩を痛めてしまった。7月に軽いキャッチボールを開始し、ファームでは11試合に投げたが、この年は4勝4敗0S、防御率4.37という結果しか残せなかった。
 3年目(1985)年も、肩のせいでスロースタートだった。が、ファームの開幕戦で完封勝ちを収めた。これが認められて4月23日に1軍に昇格し、5月1日には初のセーブをあげた。この後しばらく1軍にいたが、次第に打ち込まれるケースが増え、17試合に登板したところでファーム落ちした。ファームでは10試合で6勝2敗1Sとまずまずの成績だったが、防御率は4.06と決してよくなかった。
 この年の秋季キャンプでは、新監督の杉浦に「いい球を投げている」と評価された。その期待の現われか、4年目(1986年)には、紅白戦、オープン戦と不調ながらも開幕1軍を確保した。しかし4月6日の西武戦で打者10人に8安打と打ち込まれ、4月12日にファーム落ちした。肩が悪くて成長が止まってしまったのか、この年は防御率4.72とファームでもよい成績は残せなかった。

1軍成績 2軍成績
勝ー敗ーS 防御率 勝ー敗ーS 防御率
1983 17 34 2−1−0 4.76 35 3−0−0 2.31
1984 11 4−4−0 4.37
1985 12 18.1 0−0−1 8.35 10 62 6−2−1 4.06
1986 0.2 0−0−0 94.50 10 55.1 2−4−0 4.72
1987 0−1−0
1988 8.1 0−1−0 3.24

(1988年オフに引退)


青井要(ドラフト3位、1964年5月生まれ、尽誠学園高、左投げ左打ち)
 高校時代は不良(?)でほとんど練習をしなかったようである(南海の入団発表には「剃り込み」で登場した)。2年生の時に足首を痛め、エースの座を後輩の西川孝雄に譲っていた(青井卒業時の春に、この西川がチームを甲子園初出場に導く)。3年生になってケガが治り、最後の夏には主戦に復帰していた。この時、県大会の準決勝で敗退したが、青井は5四球を出している。プロ入り後も変わらなかった荒れ球を彷彿させる。
 貴重な左腕ということで首脳陣は期待し、1年目(1983年)は開幕から1軍に帯同させた。青井も期待に応え、ウエスタンでは前半、7試合で防御率3.00と好投した。が、体ができていないためか後半乱れ、結局12試合で28回1/3を投げ、1勝0敗0S、防御率4.13という成績が残った。
 2年目(1984年)も高い評価は変わらず、呉キャンプには1軍メンバーとして参加した。ここでビールス性胃腸炎になってしまい2軍に落とされたが、6月6日までにウエスタンでは3連勝した。当時、1軍の左腕は竹口だけであり、首脳陣はすぐにでも上げたかったようだが、この後故障があって昇格は見送られた。8月にそれが多少回復したので1軍入りし、デビュー戦は8月7日の阪急戦となった。青井は1イニングを敗戦処理で登板しただけだったが、この時に福本に1000盗塁を許し、歴史に名を残すことになってしまった。この後故障が重くなりウエスタンに降格、秋季キャンプでも投げ込めないままだった。この年はウエスタンで10試合、37回で3勝2敗0S、防御率4.86、1軍では1試合、1回で防御率9.00という成績が残った。
 3年目(1985年)は春先に1軍にあがり、7試合に投げたが制球が悪く通用しなかった。ファームでも1勝4敗の成績しか残せなかった。不振を脱するために、秋季キャンプではスライダーを覚えようとしたようである。
 4年目(1986年)の3月には、ヒジの軟骨除去手術に踏みきった。そして後半戦にはファームで投げるところまで復活した。が、無理をしたのか再手術が必要となり、この後もリハビリに明け暮れる日が続いた。
 チーム名が変わった1989年に、1軍に打撃投手として帯同、夏過ぎからはファームで登板するようになった。この年の秋季キャンプで新任の田淵監督の目にとまり、ようやく1990年に中継ぎで1軍に定着した。特に後半戦は2試合に1度の割合でマウンドに登り、この年のリーグ最多登板を記録した。青井の投球は、26歳になったこの時点でも相変わらずの荒れ球で、四球が多かった。

1軍成績 2軍成績
勝ー敗ーS 防御率 勝ー敗ーS 防御率
1983 12 28.1 1−0−0 4.13
1984 0−0−0 9.00 10 37 3−2−0 4.86
1985 0−0−0 7.88 28.1 1−4−0 6.04
1986 16 26.2 0−3−0 6.41
1987
1988 18.1 0−3−0 7.85
1989 12 28.1 1−2−0 6.67
1990 49 33.2 0−1−0 5.61 17.1 2−0−0 4.15

1989年からはダイエー。1994年まで在籍)


山川周一(ドラフト4位、1964年5月生まれ、崇徳高、右投げ右打ち)
 崇徳高校時代には「黒田(同校のエースとして春のセンバツで優勝)2世」と呼ばれた。速球と落差のあるカーブが武器だったが、好不調の波があり、コントロールを乱しがちだった。これを克服するために、モーションをいじるなど苦労していたらしい。最後の夏は県大会決勝で広陵に敗れてしまった。南海はドラフト4位で指名したが、1年目(1983年)は好調で、ウエスタンで6月までに15試合に登板、3勝0敗、防御率2.39という好成績をあげた。球威もありコントロールもよいと評価され、早くも6月5日には1軍入りした。1軍では当初は打たれることが多かったが、8月末には調子をあげ、同月28日には2回1安打無失点の好投を見せた。これを受けて9月1日には先発し、5回を2安打1失点と好投した。ただしチームが逆転されたため勝ち星はつかなかった。それでもローテーション入りが期待され、5日後に2度目の先発をしたが、西武の強力打線から1死もとれず、1安打3四球でマウンドを降りた。これで2軍降格になり、ショックが残ったのかウエスタンでもやや調子を崩した。結局1年目は、1軍で7試合、11回を投げて0勝1敗0S、防御率6.55、ウエスタンで17試合、61回1/3を投げて3勝2敗0S、防御率3.08という成績が残った。
 2年目(1984年)はウエスタンで調子があがらず、なかなか1軍に昇格できなかった(結局ウエスタンでは、15試合、66回1/3を投げて2勝7敗0S、防御率5.43)。ようやく1軍にあがったのは8月中盤だった。が、ピシャリと抑えることは少なかった。9月23日には来期へのテストの意味で先発したが、5回に突如崩れて負け投手になった。しかし最終試合では、4回を1安打無失点に抑え、初セーブをあげた。
 山川は一皮剥けるため、秋季キャンプでフォームの改造に乗り出した。それが奏効して、3年目(1985年)の序盤には俄然注目を浴びるようになった。スピードも制球力も向上し、抑え候補として名前があがる程だった。オープン戦でも3試合を無失点で切り抜けて期待を抱かせた。しかし、3月13日のヤクルト戦でリリーフに失敗し、ファーム落ちした。
 河村コーチは、またすぐに1軍にあげるつもりだったようだが、ファームでは四球を連発するなど調子はよくなかった。それでも5月末に1軍に昇格したが、30日の試合で1死もとれないまま、2四球とホームランで3点を献上し、すぐに再降格になった。ファームでもしばらくは四球を連発することになった。
 1986、1987年とファームでは安定した成績を残したが、1軍に上がるとメタメタになる傾向は変わらなかった。

1軍成績 2軍成績
勝ー敗ーS 防御率 勝ー敗ーS 防御率
1983 11 0−1−0 6.55 17 61.1 3−2−0 3.08
1984 24.2 0−1−1 5.11 15 66.1 2−7−0 5.43
1985 0−0ー0 20 49.2 3−2−2 5.80
1986 21 39 2−0−1 3.46
1987 2.2 0−1−0 20.25 14 80 7−4−0 2.93
1988 12 40.1 0−4ー0 3.79
1989 19 58 0−6−2 4.03
1990 7.2 0−0−0 7.04 18 60 4−1−0 2.55

(1992年まで在籍)


藤本修二(ドラフト5位、1964年7月生まれ、今治西高、右投げ右打ち)
 高校2年生の夏に、エースとしてチームを甲子園でベスト8まで導いた(最後は金村の報徳に1対3で敗退)。この後左手首の骨折などがあったが、3年生の夏には復活し、県大会決勝まで進出した(川之江に0対3で敗退)。ドラフトでは5位だったので、1年目(1983年)のシーズンにはほとんど話題にされなかった。それでもウエスタンで17試合、59回1/3を投げて3勝1敗0S、防御率2.58という好成績をあげた。
 そして秋季キャンプの頃から実力を認められ、2年目(1984年)の呉キャンプには1軍として参加した。その最中、2月12日の「にゃんこ事件」(餌をやろうとした野良猫に噛まれ投球不能になった)で一躍時の人になった。この後オープン戦で打たれてファーム落ちとなったが、ウエスタンでは4試合で24回1/3を投げ、3勝0敗1S、防御率1.11の成績をあげた。これが認められて4月19日に1軍に登録された。そして4月21日に初先発・初登板で8回まで投げて勝利を収め、5月2日には完投引き分け、5月8日には完投勝利と、とんとん拍子に好成績をあげていった。結局この年は7勝6敗、防御率4.72という成績を残した。
 3年目(1985年)にも、4連勝と絶好のスタートを切った。しかし最終的には8勝17敗という成績に終わった。それでも3完封はパリーグ1位であり、好不調の波が激しかったことがわかる。これは1つにはカーブのコントロールの問題、もう1つはハートの問題だったらしい。
 4年目(1986年)には、前半戦が不調というこれまでの逆のパターンとなった。が、後半戦に盛り返して10勝12敗1S、防御率3.78という成績をあげることになった。そしてこの好調さを1987年にも維持し、15勝をあげることになる。この時期は走り込みでコントロールがよくなり、新しく覚えたシュートもよく切れていた。球が重く、被本塁打が少ないのも特徴だった。
 しかし投げすぎのせいか、このオフの頃から右足の内転筋を痛めていた。このため南海最後の年・1988年には不調であり、翌1989年にはほぼ1年間を棒に振ってしまった。シーズン終盤に復帰したが、これ以後の藤本修は粘りのある投球はできなくなっていた。
 ちなみに藤本修のフォームは、従兄弟の三谷志郎(今治西高−早大−プリンスホテル)にあこがれ、これを真似したものだという。三谷は藤本修の4学年上で、1976年、1977年夏に甲子園に出場している。1977年にはベスト4入り(優勝した東洋大姫路に延長で惜敗)し、当時中学2年生だった藤本修に大きな影響を与えたようである。

1軍成績 2軍成績
勝ー敗ーS 防御率 勝ー敗ーS 防御率
1983 17 59.1 3−1−0 2.58
1984 31 162 7−6−0 4.72 24.1 3−0−1 1.11
1985 37 196.1 8−17−0 5.41
1986 31 159.2 10−12−1 3.78
1987 31 217 15−8−2 3.15
1988 30 169.1 10−15−1 4.31
1989 11.2 0−1−0 6.94 0−0−0 1.50
1990 15 62 1−7−0 9.44 32 4−0−0 2.81

(1991年から阪神。1993年から西武)



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