ちょっとした外国人列伝



カルロス・メイ(Carlos May)
 在籍1978〜1981年
 1948年5月17日生
 右投げ右打ち

 1977年末に野村監督の解任と、これに伴う江夏、柏原の放出で弱体化した南海は、これを外国人プレーヤーで補おうとした。白羽の矢が立てられたのは、大リーグで1165試合に出場していたメイだった。メイは1969年から1976年までホワイトソックス、ヤンキースなどでレギュラーとして活躍した外野手だった。この間、1972年には打率.308で12本塁打、1973年には打率.268で20本塁打を放ち、中堅選手として安定した成績を残していた。その後は成績はやや下降気味で、1977年には途中でエンゼルスに移籍し、76試合の出場にとどまったが、まだ若く(入団時29歳)、大物選手ではあった。
 185センチで103キロという子牛のような体に似合わず、コンパクトなミート打法を心掛けていたが、これには理由があった。新人王に輝いた1969年のオフに、兵役を務めていた時に、バズーカ砲の暴発で、右手の親指を第2関節から失ってしまったのだった。そこでメイは、実兄のリー・メイ(オリオールズ)に励まされ、この打法を開発したのだった。また、起用にボールを握り、まずは無難に守備をこなすこともできた。
 メイは1978年のオープン戦で、打率.233で2本塁打という成績を残した。開幕後、最初の8試合が終わった時に打率.233で1本塁打、4月末には.258で2本塁打という成績だった。打率はともかく、本塁打が少ないことに、首脳陣は不満を持った。それがようやく5月末に4本塁打を固め打ちし、打撃も3割近くまで上げた。ところがこの後、またもや本塁打が止まり、前期が終わった時には、打率.293で6本塁打という数字にとどまった。
 この後、7月には2本塁打を放つと共に、打率も3割台に上げ、8月には4本塁打を放ち、打率も3割1分台に上げた。最終的な打率は.312(ベストテン6位)だったが、本塁打は結局12本だった。それでも、喫した三振は57で、64四球を選ぶなど、選球眼の良さが目立った。
 他球団のリー(.317で30本)、ミッチェル(.274で36本)、マルカーノ(.322で27本)に比べれば満足のいく数字ではなかったが、打線が壊滅状態にあったチームにあって、このメイが中心打者とならざるを得なかった。
 2年目(1979年)には、開幕調整がうまくいかず、序盤は絶不調だった。4、5月で2本塁打、打率も2割3〜4分台に沈み、「迷(メイ)外野手」「やる気が見られない」と批判の的になった。ついには広瀬監督が謹慎を申し渡し程だった。が、6月中旬から、徐々に当たりが戻り始めた。7月には打率、本塁打数の両方を大幅に引き上げ、8月以後、打率は3割台に乗った。最終的に打率は.307、26本塁打とまずまずの成績となった。この年、山下慶徳がメイの守備固めに入ることも多かった。
 1980年は、契約が切れる3年目であり、メイはホームランを狙うと宣言していた。春先から絶好調で、復帰した門田を差し置いて4番を務め続けた。4月20日現在で打率.368で5本塁打、30日現在では.328で8本塁打を放っていた。その後ペースが落ちたが、秋口に打率を上げ、入団以来最高の成績を残した(打率.326、27本)。
 4年目(1981年)には、4番の座を移籍のタイロンに譲り、3番を務めていた。ところが5月3日に、走塁をして右膝を打撲してしまった。この後、しばらく出場を続けたが、5月13日になって大腿後側筋挫傷と靭帯損傷が発覚した。そのためメイは、長期離脱を余儀なくされた。
 この後、8月11日に練習を再開し、9月7日に1軍復帰を果たした。9月11日には松沼弟から代打3ランを放ち、スタメンに返り咲いた14日にも2打点をあげた。が、20日に打球を追って定岡と衝突し、同じ右膝を痛めてしまった。フロントは高、李に出場機会を与えるためにメイの解雇を望み、それを29日に通告した。メイは翌30日に帰国し、そのまま引退した。

試合 打数 打率−本塁打 打点 盗塁 守備位置
1978年 123 414 .312−12 80 左翼
1979年 117 398 .307−26 75 左翼、DH
1980年 124 423 .326−27 75 左翼
1981年 51 162 .259−5 22 左翼




王天上(Frank Ortenzio)
 在籍1979〜1980年
 1951年2月24日生
 右投げ右打ち

 185センチ、97キロの巨体の持ち主で、もとは一塁手だった。1973年にロイヤルズに昇格し、9試合だけメジャーに出場した経験があった(打率.280、1本塁打)。が、一塁というポジションゆえに競合者が多く、なかなか大リーグに定着できなかった。1977年には、3Aデンバーで打率.313、40本塁打、126打点で2冠王、MVPに輝いたが、それでも昇格は叶わなかった。1978年には、ハワイの3Aアイランダースに在籍したが、右手首の死球のせいで打率.258、7本塁打、30打点に終わった。
 このような中で1979年のシーズン、オーテンジオは日本行きを決断した。28歳の誕生日の3日後に大万キャンプに合流し、3月13日のオープン戦に初めて出場した。そしてこの日、いきなり2本塁打を放った。これを見て永井宣伝部長は、「王天上」の名で正式登録することを決断した(14日)。王天上はオープン戦で本塁打を量産し、アキレス腱を切った門田に代わり、DHに入ることになった。
 シーズン開幕後、しばらくは3割、30本ペースで打ち続けた。5月中盤から打率が下降したが、それでも本塁打は30本ペースを保った。また8月初旬には、打率も2割6分台まで戻した。が、その後は完全にスタミナ切れし、最終的に打率.248、23本塁打という中途半端な成績に終わった。打点に至っては僅か56であり、チャンスに打てないあまり「ター助」という渾名までが付けられた。圧縮バットと飛ぶボールの時代に、この数字は寂しいものだった。なお守備位置は、シーズン当初はDHだった。やがて、メイよりはうまいということで交代し、ライトに入った。
 2年目(1980年)にもなんとか残留したが、これは高英傑と外国人枠を争うものだった。王天上にも危機感があったのか、早くも2月16日に大万キャンプに合流した。そして18日のフリーバッティングでは、柵越え10発と仕上がりの良さを見せた。この年、門田がDHに復帰したので、王天上はライト、メイはレフトという配置になった。
 開幕後、しばらくは調子が良かったが、やがて前年通りの勝負弱さを現した。打率も前年並みで、5月19日には背筋痛で登録を抹消された。6月14日に復帰したが、体調の悪さは変わらず、7月10日に任意引退となった。
 王天上は真面目な性格で、酒もタバコもやらず、引退後も戦線離脱を詫びる手紙を球団に送った程だった。

試合 打数 打率−本塁打 打点 盗塁 守備位置
1979年 113 387 .248−23 56 DH、右翼
1980年 36 101 .257−7 14 右翼




高英傑
 在籍1980〜1983年
 1956年10月20日生
 左投げ左打ち

李来発
 在籍1980〜1983年
 1957年6月28日生
 右投げ右打ち

 1980年当時、支配下登録できる外国人選手は2人だけだった。南海はメイ、王天上の2人を抱えていたが、さらに練習生という形で、台湾球界から2人の選手を迎えた(李は1979年末に、高は1980年1月に来日)。左腕の高英傑は台湾球界のエースで、打撃にも非凡なものがあった。これとバッテリーを組む李来発は強打の捕手で、台湾リーグで三冠王に輝いていた。2人はリトルリーグ以来、東亜高工、台湾体専、空軍、合作金庫とバッテリーを組み続けた仲だった。李はコミュニケーションの問題から、直ちに外野にコンバートされたが、2人は将来の投打の主役として期待された。
 ところが、チャンスは比較的早く訪れた。第2の外国人・王天上が5月19日に背筋痛でファーム落ちし、7月初旬に帰国、やがて任意引退となったのである。これに伴い高は支配下選手となり、7月16日にウエスタンで初勝利をあげた。8月9日に1軍に昇格するまで、4試合で3勝1敗、3勝は全て完投という成績を残した。これが認められて8月11日に1軍の初マウンドを踏み、シーズン終了までに3勝1敗、防御率4.33という成績を残した。
 ただし、「150キロ級」という触れ込みにもかかわらず、空軍の2年間投げていなかったこともあり、スピードは落ちていた。むしろ制球にこだわり、新たに覚えたフォークを使うなど、小さくまとまった投球になっていた。
 1981年には、外国人の選手枠が3まで増やされ、李も支配下選手となった。高は紅白戦、オープン戦で調整登板を続けた。李もブレイザー監督の指示で捕手の練習を始め、スローイングのよさが注目された。ところが4月1日に、名取とのトレードで西武のタイロンが移籍してくることが決まった(オーナー筋でまとめた話だったらしい)。これに伴い、高は2軍降格、李は練習生扱いが決定的になり、2人は翌2日に「約束が違う、帰国する」と訴えた。これに対し、永井代表が乗り出すなどして、11日には残留することで話がまとまった。事情説明と里帰りのため、2人は27日に一旦台湾に帰った。
 高は5月4日に再来日したが(李は6月3日)、ここで穴吹2軍監督が打者転向を打診した。穴吹は高の素質を「門田以上」と述べ、高も乗り気だった。以後、高はウエスタンで21試合に出場し、打率.342、6本塁打と活躍し、穴吹の眼力は証明されたようだった。おりしも、メイが右脚を負傷し、6月6日に登録を抹消された。高はこれと入れ替わりに、6月8日に1軍登録された。早速、翌9日に代打で出場、同点打を放った。10日には、味方投手がいなくなり、敗戦処理として1回を投げる(3三振、2四球で無失点)一幕もあった。
 ところがこの後、1軍投手の変化球と配球に苦しめられ、全く打てなくなった。結局30試合で打率.180、1本塁打という散々な成績に終わってしまった。なおこの間、李は7月初旬のファームの試合で左手小指を骨折していた。
 1982年には、タイロンに加えてダットサンが加入した。これに伴い、またも李が練習生になった。とはいえ、ダットサンも大リーグ経験のない選手であり、高の成長次第では追い落とすチャンスもあった。高はファームで11試合に出て、打率.316、3本塁打を放ち、小指の骨折で離脱したダットサンに代わり、4月末に1軍に上がった。が、7月12日までに27試合に出て、打率.269で本塁打はゼロ、後半戦の4試合でさらに打率を落とし、結局31試合で打率.243、本塁打ゼロという成績に終わった。
 8月中旬にダットサンが復帰すると、高は入れ替わりにファームに行き、李が支配下登録された(8月19日)。高はしばらく里帰りするため、8月25日に帰国した(10月18日に再来日)。李は、終盤に1軍に登録されたが、10試合で打率.182、本塁打2本という結果に終わった。
 1983年には、新監督の穴吹が、高と李に期待する方針を打ち出した。タイロンとダットサンを解雇し、外国人は移籍のライトルとの3人になったので、高も李も支配下登録された。
 開幕にあたり、ライトルとともに1軍に食いこんだのは李だった。とはいえこれは、守備力に期待してのベンチ入りであり、4月18日にはファームに落とされた。そして、高とともに2軍の主軸を打ち続けた。高はウエスタンの前半戦の2冠王(打率も.316)、李も打率.309という成績を残した。7月になると、李は再び1軍に上がり、しばしばスタメンにも入った。が、前半戦は11試合で打率.219、本塁打ゼロに終わった。後半戦では4試合に出たが、結局通算では15試合に出て、打率.244、1本塁打という成績に終わった。
 これに代わり、8月21日からは高がスタメンに入ったが、8試合で打率.083という数字しか残せなかった。もはや2人が、「超ファーム級」ではあっても、1軍の助っ人にはなれないことは明らかになってきた。
 高は9月になり、投手への再転向を直訴し、9月14日のウエスタンの試合には、「4番ピッチャー」で出場するなどした。最終打席で打点をあげ、ファームの打点王に輝いたが、それも虚しい記録でしかなかった。投手としても3試合で8回2/3を投げ、13安打、9四死球を出して0勝2敗、防御率7.27と、ブランクを取り戻せなかった。(1983年のファームでの成績は、高が71試合で.305、14本、投手として3試合、0勝2敗、防御率7.27。李が62試合で.286、15本)
 ちなみに、最終年の年棒は、高が820万円、李が800万円にすぎなかった。


高英傑・年度別成績

試合 打数 打率−本塁打 打点 盗塁 守備位置 勝−敗−S 防御率
1980年 投手 3−1−0 26.2 4.33
1981年 30 61 .180−1 左翼 0−0−0 0.00
1982年 31 74 .243−0 左翼
1983年 12 .083−0 左翼


李来発・年度別成績

試合 打数 打率−本塁打 打点 盗塁 守備位置
1980年
1981年
1982年 10 33 .182−2 左翼
1983年 15 41 .244−1 左翼




タイロン(Jim Tyrone)
 在籍1981〜1982年
 1949年1月29日生
 右投げ右打ち

 タイロンは大リーグで177試合の出場経験があったが(通算で打率.227、8本塁打)、1978年には1試合も出場できなかった。強肩で、サードやショートもこなせる器用な選手だったが、大リーガーとしては長打力が不足気味だった。1978年には3Aバンクーバーで96試合に出場、打率.269で10本塁打に終わっていた。1979年には、インター・アメリカン・リーグで60試合に出場し、打率.358で4本塁打を記録した。が、同リーグは7月14日限りで解散してしまった。
 これに目を着けた新球団の西武が、ミューサーに代わる外国人として、急遽タイロンを獲得したのだった。西武はアベレージヒッターとして期待したのだが、秋口に固め打ちし、58試合で打率.291、8本塁打の数字を残した。さらに翌1980年には、1番を打ちながら128試合で打率.276、35本塁打と、中心選手としてブレイクした。
 ところが西武は、それまでのタイロン、スティーブに加え、1981年には現役大リーガーのテリーを入団させた。南海フロントは、タイロンの守るところがなくなったのを見て、4月1日に急遽名取(前年のドラフト1位投手で5勝をあげていた)とのトレードを成立させた。これで南海は、メイ(左)、タイロン(右)、門田(左)というジグザグ打線が組めるようになった。
 5月4日からは4番をメイに譲り、3番に落ちついた。間もなくそのメイも離脱し、タイロン−門田−山本雅(久保寺)という打順を組むことになった。この年のタイロンは、肉離れや腰痛に苦しめられながらも3割をキープした。強肩も相変わらずで、6月21日現在で打率.300、12本塁打、12捕殺とまずまずの成績を残していた。この後、打率はさらに上がったが、本塁打のペースは鈍り、結局、打率.311、18本という数字に終わった。
 翌年(1982年)には開幕からスランプに陥った。6月になりようやく打ち出したが、19日にフェンスに激突し鞭打ちになるなど散々だった。7月12日現在で、68試合に出て.281で6本と、長打力が全くなくなっていた。また守備も腰高で大きなミスを連発するようになった。結局この年限りで、新監督の穴吹によって解雇された。

試合 打数 打率−本塁打 打点 盗塁 守備位置
1981年 125 492 .311−18 60 11 右翼
1982年 124 457 .271−13 48 12 右翼




ダットサン(Gene Dotson)
 在籍1982年
 1953年11月1日生
 右投げ右打ち

 1982年のシーズンに、タイロンと高、李の3外国人で臨もうとしていた南海が、急遽1月末に獲得したのがダットサンだった。タイロンはともかく、高、李の2人が即戦力として当てにならないため、ブレイザー監督の強い意向で契約したのだった。この時、前年に阪神に在籍したオルト(102試合、打率.307、18本塁打)の獲得も検討されたが、ブレイザーが選んだのはダットサンだった。
 ダットサンは大リーグ経験がなく、前年の3Aスプリングフィールドでの成績も、打率.280で14本塁打という平凡なものだった。年棒も2500万円と安く、高、李と競争させることを強く意識していたのかもしれない。
 入団に際し、91メートルを9.8秒で走ったことがあると発表されたが、確かに足はそれなりに速く、守備範囲も広かった。が、打撃は穴が多く、オープン戦では三振を繰り返した。それでもブレイザーが付きっきりで鍛えて、5本塁打を放った。端正なマスクと、「エンスト」「ポンコツ」などと揶揄されやすい登録名で、良くも悪くも注目されていた。
 開幕後、4月11日にはサヨナラ本塁打を放つなど、それなりの活躍を見せた。4月下旬に小指の付け根を痛め(後に骨折と判明)、5月3日にファーム落ちしたが、それまでに18試合に出て打率.266、3本塁打という成績を残した。
 この後、6月15日のファームの試合で、同じ箇所を痛めてしまった。骨には異常がないが炎症を起こし、そのひ弱さがまたも揶揄された。8月7日にようやく1軍に復帰したが、守備でのミスを繰り返した上、打撃の方も低迷した(復帰後の打率は.214で3本塁打)。このため、早々に見切りをつけられ、解雇された。

試合 打数 打率−本塁打 打点 盗塁 守備位置
1982年 47 148 .236−6 14 左翼




ライトル(Jim Lyttle)
 在籍 1983年
 1946年5月20日生
 右投げ左打ち

 大リーグで391試合に出場した後、友人のホプキンスの誘いで来日、1977〜1982年に広島の強力打線の一角を担った強打者だった。特筆されるべきはその強肩で、ライトの守備位置から物凄いバックホームを再三見せ、4年連続のダイヤモンドグラブ賞に輝いた。36歳を迎えた1982年には、打率.270で24本塁打と成績を落としたが、前年には.318で33本という成績を残していた。広島はあっさりと自由契約にしたが、南海はまだやれると判断し、4000万円の高額で契約した。この時、南海の最高年俸は3400万円の門田であり、いかに期待したかがわかる。
 1983年の開幕戦、ライトルは4番を務めたが5打数ノーヒットだった。この後も全く打てず、5月25日の段階で打率.216、本塁打は僅か2本にとどまっていた。打順も4番から3番に代わり、その後は更に下位に降格されていった。8月末の段階でも、打率.246、10本塁打であり、その頃にはスタメン落ちも多くなった。秋口に少し挽回したが、最終的に打率.258、11本塁打という体たらくで、シーズン終了後に自ら引退を申し出た。
 ライトルは読みで打つタイプであり、体力的な衰えに加えて、パリーグの投手への慣れの不足が、この惨状を生んだのかもしれない。

試合 打数 打率−本塁打 打点 盗塁 守備位置
1983年 112 357 .258−11 38 右翼




ナイマン(Chris Nyman)
 在籍 1984〜1985年
 1955年6月6日生
 右投げ右打ち

 門田、香川と共にクリーンナップを担うことを期待され、年俸3000万円で入団した。前年(1983年)には3Aデンバーで107試合に出場し、23本塁打、90打点。終盤にホワイトソックスに昇格してからは21試合で打率.286、2本塁打を放った長距離ヒッターだった。190センチ、90キロの巨体に似合わず、菜食主義者でおとなしい性格だった。デッドボールを受けても全く表情を変えず、何食わぬ顔で一塁に向かうその姿は、「珍プレー」で取り上げられた程だった。
 1984年の来日時には、1月15日の合同自主トレから合流する真面目ぶりを見せた。ところが呉キャンプでは、独自の調整法でハーフスイングを連発したので評価が上がらなかった。穴吹監督が失望のあまり、「何もナイマン」と言ったのはこの時のことである。ところが、オープン戦ではそれなりに活躍し、3月31日の開幕戦でも2安打1打点の数字を残した。4月が終わってみれば、打率がリーグ7位、5月末には打率14位、本塁打3位(13本)と意外な活躍ぶりを見せた。
 更に6、7月と本塁打を打ちまくり、新聞には「止まらナイマン」などと書きたてられた。7月31日には22号を放ち、本塁打争いのトップに立つ程だった。だが、夏場にスタミナ切れして、最終的には29本塁打にとどまった。
 2年目(1985年)も、数字の上では1年目と同等の活躍をしたように見える。が、その内容はかなり異なっていた。打率は少し上がったが、6月末の段階で本塁打は9本にとどまっていた。チャンスにも打てず、はじめて勝利打点をあげたのは7月30日のことだった。夏場にチームが連敗に苦しんだ時にも、それなりに本塁打を放ったものの、チャンスでは凡退を続けた。その結果、チームの不振の元凶と見なされるようになってしまった。ようやく9月になって爆発し、打率を2分以上上げたが、「頼りない」というレッテルを拭うことはできなかった。その結果、最終戦まで出場を続け、チーム三冠王の成績を残しながらも、新外国人・デビッドの獲得に伴い解雇されてしまったのである。
 ナイマンはその真面目さゆえに、解雇されてはじめて、球団への不満を口にしたという。ナイマンにとっての不運は、他のチームに「当たり」外国人が多すぎたことでもあった。例えば阪急のブーマーは、1984年に打率.355で37本、1985年には.327で34本。近鉄のデービスは、1984年には途中来日ながら.310で18本、1985年には.343で40本。ロッテのリーは、1984年には.309で31本、1985年には.328で28本。この「当たりすぎ」の3人と比較されてはどうにもならなかった。

試合 打数 打率−本塁打 打点 盗塁 守備位置
1984年 125 427 .267−29 82 15 一塁
1985年 121 425 .285−26 78 13 一塁(三塁)




ドイル(Jeff Doyle)
 在籍 1984〜1985年
 1956年10月2日生
 右投げ左打ち

 小柄(172センチ、73キロ)だが、前監督のブレイザーが日本向きの選手だとして推薦し、年俸2400万円で入団した。前年(1983年)には3Aルイスビルで127試合に出場し、打率.300で5本塁打を放っていた。終盤にはカージナルスに昇格して13試合に出場し、本塁打はなかったが打率.297という成績だった。長打よりも巧打と守備が期待されたわけだが、それまでセカンドを守っていた河埜も、納得してセンターに移ることになった。
 ドイルもナイマンと同様に真面目で、1984年の来日時には、早くも1月18日から合流した。オープン戦では打率.383という数字を残し、充分にクリーンナップが務まるものとされ、打順は2番から3番に移された。3月31日の開幕戦では逆転3ランを含む3安打を放ち、期待はますます高まった。ところが、4月が終わった時には打率は.278で、その後も徐々に下降した。ついに2割5分を切ると、打順も2番が多くなった。それでも堅実な守備とチームバッティングが評価され、決して悪評は立たなかった。最終的には打率.262、13本塁打という平凡な成績に終わったが、守備率はパリーグのセカンドでは1位だった。
 2年目は当初、この「守備の人」というイメージを塗り替えるように打ちまくった。4月の打率は.343で、本塁打も5本を放った。ところがこれも長続きしなかった。すぐに2割6分台の定位置に落ち着き、本塁打も月産1〜3本に戻ることになった。結局、1年目よりも本塁打を3本増やしただけで、とてもチームの「助っ人」にはなれなかった。10月11日には登録を抹消され、そのまま帰国することになった。帰国の際には南海選手会から時計が贈られた。

試合 打数 打率−本塁打 打点 盗塁 守備位置
1984年 123 447 .262−13 49 二塁
1985年 120 406 .261−16 44 二塁




グッドウィン(Danny Goodwin)
 在籍 1986年
 1953年9月2日生
 右投げ左打ち

 ドイル、ナイマンに代わる新外国人として、デビッドと共に入団した(1986年度は33歳)。デビッドが三振かホームランかというタイプだったのに対し、確実性のある3番タイプとして期待された。前年(1985年)には3Aタコマでコーチ兼任で出場し、316打数で打率.291、12本塁打、65打点の成績を残した。ケガが多かったが、1975〜1982年には大リーグで252試合に出場、1979年には58試合で.289、5本塁打の成績を残しており、実力派の大物と見られていた。
 キャンプでもミートの巧さを見せ、門田(60番)、デビッド(61番)と共に、62番という大きな背番号を背負い、「60発トリオ」として期待を集めた。オープン戦では打率.228、3本塁打という成績に終わったが、打点は12球団中3位であり、チャンスに強い、リーダーシップのとれる選手と見られていた。
 そして、開幕2戦目(4月5日)には、西武を突き放すタイムリーを放ち、5月10日に登録を抹消されるまでに打率.294とまずまずの数字を残した。この時に抹消されたのは右足を痛めたからだったが、実はグッドウィンはケガの多さゆえにほとんど守備に就いたことのない選手だった。この後、6月になって復帰し、代打では巧打を見せたが(6月10日には打率を.319にまで上げた)、スタメンに戻ると打てなかった。南海としては、門田がいる以上、グッドウィンをDHにまわすこともできず、無理に出しては凡打を繰り返すパターンが続いた。6月末には打率は.270まで下がり、7月末にはついに.245まで落ちた。
 これで見切りをつけられ、後半戦はほとんど代打での出場となった。が、このためにチームは外野のスタメンの選定にさえ苦労するようになり、編成上受けたダメージは大きかった。ただ、右下手投手には強く、特に近鉄の佐々木修が投げる時には、キラーとしてスタメンに戻ることが多かった。反面、西武には打率.091と全く通用せず、変化球投手にも弱かった。

試合 打数 打率−本塁打 打点 盗塁 守備位置
1986年 83 186 .231−8 26 左翼




デビッド(David Hostetler)
 在籍 1986〜1987年
 1956年3月27日生
 右投げ右打ち

 1981〜1984年に大リーグで249試合に出場、特に1982年にはレンジャーズの一塁のレギュラーを務め、打率.232、22本塁打と活躍した。が、打撃が粗く三振が多かったため(1982、1983年に連続100三振)、オブライエンにレギュラーの座を奪われてしまった。1986年には3Aアイオワで打率.257、29本の数字を残したが、メジャーには昇格できなかった。まだ若かった(この年29歳)デビッドは、日本行きを決断し、ナイマンに代わって一塁を守ることになった。
 当初、その粗さが危惧されたが、オープン戦では.279、3本塁打という成績で、開幕後も安定した成績を残した。4、5月には2割9分台の打率を残し、山本と2人でメロメロのチームを支えた。6月にやや成績を落としたが、最終的に全試合に出て、打率.285、25本塁打とまずまずの成績だった。チャンスに強く、勝利打点も多かった。
 ところが2年目(1987年)、長打重視のスイングに変えてからおかしくなった。オープン戦から春先は好調で、4月には打率.290、5本塁打という成績を残したものの、5月から低迷が始まった。ストライクゾーンがわからなくなり、この月は1本塁打に終わった。その後の6、7月が最悪で、打率は2割2分台まで下がった。そしてスタメン落ちも増えた。8月以後、少し持ち直し、打率.251、17本塁打という成績に戻したが、これではいかにも迫力不足だった。復活を期待して残留を望む声もあったが、結局のところ解雇されてしまった。
 1988年には米球界に復帰し、8試合ではあったがメジャーに出場し、意地を見せた。
 その渋さは玄人好みで、南海の選手では初めて個人応援歌がつくられた(その後、藤本博に受け継がれた曲)。

試合 打数 打率−本塁打 打点 盗塁 守備位置
1986年 130 487 .285−25 74 一塁
1987年 124 391 .251−17 68 一塁




ハモンド(Steve Hammond)
 在籍1987年
 1957年5月9日生
 右投げ左打ち

 ハモンドは、大リーグには1982年に46試合に出場しただけだったが、1986年に3Aアイオワで3割3分の打率を残した巧打者だった。大リーグでは外野を守ったが、1986年のアイオワでは外野60、三塁45、捕手15試合とマルチに出場した。南海はハモンドを三塁手として迎えたが、外野も弱いチーム事情から、「どこでも守れる」という触れ込みは頼もしいものだった。
 1987年のシーズンでは呉キャンプから合流し、その守備が期待したレベルにはないことが判明した。それでも、なかなかの巧打を見せ、打つ方ではそれなりに期待された。開幕後、主に6番を打ち、4月には打率.300とまずまずの数字を残した。その間、エラーを連発し、4月22日には三塁ゴロを本塁に送球せず、ランナーをミスミス生還させて山内孝を敗戦投手にする「神話」までつくった。それでも、5月1日に来日1、2号を放ち、ファンの期待を繋ぎ止めた。
 が、この後は全くダメだった。5月末には打率.265で4本塁打、6月末には.263で4本塁打(月間0本)、7月末には.267で5本塁打(月間1本)と、およそ「助っ人」とはいえない低空飛行を続けた。このため6月後半の一時期、藤本博にスタメンを明け渡し、7月には解雇が囁かれるに到った。
 8月末には打率.258で6本塁打(月間1本)だったが、この月には河埜がサードを守ることが多かった。9月末には.267で9本(月間3本)、10月末には.274で9本(月間0本)と、秋になって巻き返したが、もはや手遅れで解雇となった。
 ハモンドの裏応援歌「働〜け 働〜け 働〜け ハモン〜ド、働〜け 働〜け 給料返〜せ〜」が何月から歌われるようになったのかはっきりとは知らないが、ファンに見放されだした6月頃からだろうか?

試合 打数 打率−本塁打 打点 盗塁 守備位置
1987年 115 318 .274−9 29 三塁




ライト(George Wright)
 在籍 1988年、1993年
 1958年12月22日生
 右投げ両打ち

 南海最後の1988年に在籍したライトは、もとはレンジャーズのレギュラー選手だった。1983年には1番・センターとして、打率.276、18本塁打と活躍した。ところが翌1984年に膝を痛め、以後成績はジリ貧となっていた。1986年までは毎年100試合以上に出たものの、打率は2割そこそこで、1987年には3A、さらには2Aにまで落ちていた。2Aジャクソンビルでの成績も、打率2割6分台という低いものだった。
 南海は、フロントと現場の思惑が異なったため、1988年1月中旬の段階で、新外国人が決まっていなかった。そんな中で急遽、泉谷代表がライトとの契約をまとめ、「安物買い」だと強い批判を浴びることになった(年棒2560万円)。それでも、ライトはオープン戦の直前に来日し、シュアな打撃と好守を披露した(オープン戦では打率.276)。続いてバナザードの入団が決まったことで、門田をスイッチヒッター2人が挟む形になり、打線が厚みを増したと考えられた。
 ライトはセンター、ライトを中心に守ってきた選手だったが、レフトを守った経験もあった。当時、南海のライトには、1986年にゴールデングラブ賞を獲得した山本がおり、ライトはレフトに入ればよい状況だった。が、「ライトをライトが守る」という話題づくりもあり、山本はレフトにコンバートされた(山本が利き腕を痛めていたためでもあったか)。場内でのアナウンスは「6番・ライト・ジョージライト」というものになった。
 このように、この年の南海は随分と期待されたのだが、4月9日の開幕戦で、ライトは脚を痛めて離脱してしまった(右ふくらはぎの肉離れ)。このこともあり、チームは開幕8連敗を喫し、いきなり躓いてしまった。それでもライトは24日に復帰し、次の試合(26日)で間柴から1号弾を放った。5月に入り、山本が5番に昇格し、ライトは6番に下がったが、その気楽さもあってか実力を存分に発揮した。5月の通算打率は.333で4本塁打、続く6月にも4本塁打を放った。7月13日に再度脚を痛めたが(左第2中足基節間部炎症)、この時まで59試合に出て、打率.304、10本塁打という成績だった。バナザード・湯上谷・佐々木・門田・山本(高柳)・ライトと続く、南海最後の強打線の時期で、チームも3位にまで浮上していた。
 が、ライトの成績はこの時がピークだった。脚の状態の悪さに加え、8月初旬には右頚部リンパ節を腫らして1週間欠場するなど、体力の弱さを暴露した。途端に成績も「2A級」に戻り、8月には10試合に出て、打率.100、本塁打と打点はゼロという数字を残してしまった。8月21日に再び右ふくらはぎの肉離れを起こし2週間欠場し、9月16日に復帰した後も、「メジャー級」の打棒は復活しなかった。既にダイエーへの「身売り」が確定し、来期は札束構成でメジャー級選手が入団することが確定的になっていた。凡打を連発するライトは、10月4日の試合での、4打数4三振で見切りをつけられ、6日には登録抹消となった。以後はチームを離れ、17日に帰国することになった。
 ライトの、脚を痛めた7月15日以後の打率は.163、1本塁打、3打点というものだった。佐々木が骨折で離脱し、バナザードが出場停止を繰り返すチーム状況の中で、この不振は本当に痛かった。前半戦が終わったところで、充分にAクラスに食い込めると見られていた南海が、結局5位になった背景には、「身売り」騒動の影響だけでなく、このライトの低迷もあったといえる。
 なお、11本塁打のうち8本までは左腕から放ったものである(間柴(2本)、工藤、村田辰美、古溝、森浩二、星野、園川)。右腕では渡辺久信、村田兆治、荘から打っているが、全般に一流どころから多く放っている気がする。

 ダイエーになって5年目の1993年、新監督になった根本睦夫が、3Aに復帰していたライトを呼び戻した。ケガさえなければという期待感があったのだろうが、この年35歳になるライトはかなり衰えており、2割3分台の数字しか残せなかった。

試合 打数 打率−本塁打 打点 盗塁 守備位置
1988年 89 300 .263−11 27 右翼
1993年 94 351 .234−9 44 中堅




バナザード(Tony Bernazard)
 在籍1988〜1990年
 1956年8月24日生き
 右投げ両打ち

 バナザードは南海最後の大物外国人として、1988年2月に入団した。この年32歳、1979年以来大リーグで活躍していた現役メジャー選手だった。1985年にはインディアンズで153試合に出場し、打率.274で11本塁打、1986年には.301で17本、シーズン途中でアスレチックスに移った1987年には、.250で14本という数字を残していた。1987年の年棒は63万ドル(7600万円)だったが、成績低下によるカットが見込まれていた。南海は9600万円の年棒で、バナザードの獲得に成功したのだった。
 当初、守備位置はサードと報じられたが、大リーグではほとんどセカンド専従だった。また、守備の名手といわれたが、強肩だとはいやや雑な面があった(1985年以後、年間16、17、17失策)。3月12日に来日し、結局セカンドを守ることになり、急遽湯上谷がショートへ、若井がサードにコンバートされた。オープン戦では打率.231にとどまったが、大物としての風格がありファンは期待した。
 開幕後、しばらくは3番を打ち、3割台の打率を残したが、長打がなく、ストライクゾーンへの対応にとまどい13三振を喫した。そこで佐々木と交代し、1番を打つことになった。前半戦終了時には、打率.316で12本塁打を放ち、ライトと共にチームに貢献していた。
 後半戦もこの活躍は続いたが、次第に「暴れん坊」ぶりを発揮し、8〜9月だけで3度の退場記録してしまった。まず8月15日には加藤哲を殴り退場、翌日に7日間の出場停止処分を受けた。次いで9月1日にも退場となった。3度目は9月23日のことである。この間、9月13日には外国人新記録となる27試合連続ヒットを放つなど(17日に28試合でストップ)、負傷者続出のチームにあって活躍していただけに、これらの退場は痛かった。
 バナザードは、9月中旬に右肩を脱臼し、さらに10月2日には右肩を痛め、全日程の終了を待たずに6日に帰国した。この間、二塁を110試合守り15失策を犯した。確かに守備はうまく、強肩を生かしたスローイングも注目されたが、やはり少し雑だった。
 ダイエー1年目の1989年には、アップショーとコンビを組むことになった。ハワイキャンプに一旦合流し、日本には3月9日に到着した。開幕当初は3番を打ったが、4月の打率は.213にとどまった。そこで気分転換に、4月下旬からは1番、5月下旬からは5番、6月からは4番と打順が変動した。6月9日現在、打率は.248にとどまっていたが、得点圏では.316であり、一応はチームを支えていたことになる。
 この後、夏になるとホームランを量産し、打率も上げていった。8月には、打率.348、8本塁打、13打点で月間MVPを獲った程である。が、9月27日に左上腕二頭筋を痛めスタメンを落ち、10月8日に4試合を残して帰国した。バナザードはこの年、門田の穴を埋めるべく長打を狙い34本塁打を記録した。その分打率は下がったが、まずは合格点の成績だった。が、守備はますます雑になり、22失策を犯してしまった。
 そのため、湯上谷が復帰した翌1990年には、バナザードはDHにまわることになった。ところがこの年、新任の田淵監督が場当たり的な采配を繰り返し、チームをボロボロにしてしまった。盟友のアップショーも視力の衰えから低迷し、7月2日のゴセージの入団に伴い押し出され、退団となった。その中でバナザードは、前半戦58試合で打率.284、11本塁打と悪くない成績を残していた。が、7月になると左わき腹痛で休みがちになった。これをマスコミは、アップショーの退団をめぐる首脳陣との確執と書き立てた。7月19日に登録抹消になり、29日に復帰して、以後8月8日までゲームに出た。10日に再び登録を抹消され、9月13日には球団が契約を延長しない旨通告した。バナザードは9月16日に帰国し、35歳になる1991年には大リーグに復帰し、6試合に出場して意地を見せた。

試合 打数 打率−本塁打 打点 盗塁 守備位置
1988年 111 438 .315−20 60 二塁
1989年 122 446 .271−34 93 二塁
1990年 75 276 .275−13 40 DH




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