ちょっとした打者列伝


門田博光というバッター

 今さら解説の必要もないスラッガーである。通算567本塁打は、王、野村に次ぐ歴代3位、1988年には40歳でのMVPに輝いている。1979年のキャンプでアキレス腱を切断したが、奇蹟の復活を果たしたのもよく知られたエピソードである。ここではそのような話ではなく、あまり知られていない裏話について紹介したい。
 まず、アキレス腱の切断の件である。キャンプ中にジャンプした時に切ってしまったわけだが、野村克也が興味深い指摘をしている。門田はキャンプ中、断食して体重を落とす調整法を行っていたが、これで体の調子が崩れ、この事故に繋がったのではないかというのである。野村は2年前のシーズンをもって南海を離れたので、この現場にいたわけではない。が、事故の原因に関するほとんど唯一の情報であり、興味深い話である。そういえば門田は、1989年のシーズン前には、卵ばかり食べて痩せる「デンマーク式ダイエット」を実施している。この件を踏まえると、かなり極端な食事をしていたというのも、ありそうな話に思える。
 次に、門田の守備の件である。オリックスに移籍した1989年、DH専任をやめ、2試合に1試合のペースでレフトを守ったのは有名な話である。これは、オリックスでは肝炎持ちの石嶺がDHを務めていたことに対する配慮だった。が、41歳の、しかもアキレス腱を痛めている門田が本当に守れるのか、マスコミはこぞって疑問視する声をあげた。門田は、自分はもともと結構うまい外野手だったのだと反論し、実際に無難に務めを果たした。この件について言いたいのは、ほとんどのマスコミが、門田が1987年のシーズンで、結構レフトを守っていたのを知らなかった点である。1988年のMVP獲得と、球団売却、移籍で門田は一躍注目される存在になったが、マスコミの多くは、門田が丸十年守備についていないと誤解していた。そうではないのである。ちなみに、1987年の柏崎球場での水島新司の始球式は、真剣勝負の体裁をとったが、この打球を捕球したのも門田だった。


新井宏昌というバッター

 80年代の南海が誇るバッターといえば、門田の次に新井をあげなければならない。新井は1986年に近鉄に移籍後、2000本安打を達成し、今では「イチローの師匠」として知られている。新井は33歳のシーズン(1985年)終了後、山口哲治との交換でタダ同然で近鉄にトレードされたが、移籍2年目には首位打者となった。山口は南海で1勝もできなかったのだから、これはまさに歴史に残る大失敗のトレードである。
 南海フロントの無能については否定しようがないが、あえて彼らのために弁明するならば以下のようなことになろうか。新井の力は、確かに落ちつつあったのである。3割を3回打っていたとはいえ、.290(83年)、.286(84年)、.262(85年)と、打率は確実に下降線を描いていた。もともと長打力のある方ではなかったが、本塁打も5、4、3本と減りつつあった。また、新井はシーズン序盤には自らに課題を課し、それを実戦の中で試していくために、なかなか率が上がらなかった。2割9分、2割8分を打った1983、1984年にも、打率が上がり始めたのは8、6月以降であり、実のところ存在感は乏しかった。1985年にも、序盤は岡本の起用により、後半は山田や佐々木の起用により、出番はかなり減っていた。1986年には、河埜が内野に戻るとしても、外野には山本、グッドウィン、山田、佐々木、岡本、高柳、山村がひしめいているのだから、新井の出番はさらに減ることが予想された。それゆえに、新井を切ったのであるー。
 確かに、交換要員の選択さえ間違わなければ、フロントの言い分もわからなくはない。新井が近鉄で復活したのは、中西打撃コーチと出会い、オープンスタンスにしたからでもあるのだから。そうなることを予想できなかったのも、仕方がないと言えば仕方がない。しかし、問題はやはり交換相手が、故障で復活のメドが立たない山口哲治だったことである。南海は当初は谷宏を希望していたらしいが、拒否されたので山口で妥協したのだった。せめて、久保康生(1985年は2勝1敗、防御率7.62と低迷していた)と交換できなかっただろうか。


若井基安というバッター

 南海の最後のドラフト(1987年秋)で2位指名され、翌年のオープン戦でルーキー大賞を獲得したのが若井だった。PL学園、法政大学、日本石油でいずれも優勝を収めた経歴は、Vの使者というムードを漂わせ、ファンはこの若井に夢を託したものだった。彼が守った三塁は、藤原満の引退後(1982年オフに引退)、チームのウイークポイントとなっていたが、「PLで鳴らした」若井が埋めることは非常に頼もしかった。
 ところが、開幕と共にこのような期待は雲散霧消した。若井はまず開幕2戦目に、西武・安部のゴロを悪送球し、直後のバークレオの満塁弾を導いてしまったのである。この試合、南海は終盤に3点差まで追い上げたのだから、このエラーは非常に痛いものだった。
 さらに翌日のロッテ戦でも、高沢のゴロをまたも悪送球し、直後のマドロックのタイムりーを導いてしまった。この試合のスコアは0対1であり、まさに連夜にわたり若井1人で試合を潰す形になった。次の日のロッテ戦でも、マドロックの三塁フライを落球し、吉田豊の押し出しを招いている。南海はこの躓きからしばらく立ち直れず、開幕7連敗を喫してしまったのである。
 このように半ば「伝説」になった若井の守備だが、その後もエラーが多く、やがて内野失格となり、ダイエー時代には外野に追いやられてしまった。若井の応援歌の「チャンスに強いガッツマン・我らの若井」という一節などは、「PLだけど守備がダメ・我らの若井」という替え歌にされてしまった。
 さて、ここからが本題である。確かに不思議である。何で若井は「PLだけど守備がダメ」だったのだろうか。それも、ただの年ではない、PLが全国優勝した時(1981年春)のレギュラーだったのである。果たして「守備がダメ」でPLのレギュラーを務めることができたのだろうか。
 ・・そう思いつつ、調べてみて愕然とした。若井はPL時代には内野手ではなく、なんとライトを守っていたのである(ただし、1980年秋季近畿大会準決勝では途中からセカンドに入っている)。この年(1981年)のPLは、法大・南海でも同僚になる西川がエースを務め、吉村(後に巨人)が3番・ファーストでキャプテン、田淵(あの田淵の遠い親戚)が4番・キャッチャーというチーム構成だった。若井は1番・ライトで、新チーム結成以来、4割2分という打率を残していた。ただし、このセンバツでPL打線は不調であり(5試合で20得点)、若井も20打数3安打(2打点、1四球、1盗塁)という成績にとどまっていた。
 この若井が内野手(セカンド)に転向したのは法大進学後のことだが、日本石油でもずっとセカンドを守っていた。それがプロ入り後に、ほとんどぶっつけ本番でサードに入り、先に述べた悪送球を招いてしまったのである。長距離(外野)、近距離(セカンド)の送球には慣れていたが、サードからというその中間の距離には慣れていなかったのだろう。
 もう1点、内野守備での送球が、プロ入り前からのトラウマになっていた可能性も指摘できる。日本石油での2年目、1987年の都市対抗野球の初戦に、若井はセカンドゴロを本塁に悪送球し、2者の生還を許してしまった。チームはこのエラーをきっかけに追い上げられ、逆転負けを喫している(若井は自分で打った勝ち越し3ランを帳消しにしたことになる)。
 
 若井は卓越したバッティングセンスを持ちながら、小柄(PL時代170センチ、プロ入り時172センチ)なために長打は期待できなかった。もし大学、社会人野球でライトを守り続けていたなら、ドラフトで指名されることはなかったかもしれない。内野転向は彼をプロ入りに導くものだったともいえよう。が、同時にそれは彼の苦悩の始まりでもあった。


岩木哲というキャッチャー

 岩木は1973年春に大鉄高校を卒業し、新日鉄広畑に入社した。が、1年で退社し、1974年には1年間ぶらぶらとしていた。同年秋に広島の入団テストに落ち、その後の南海のテストに合格し、プロ入りを果たした。
 とはいえ当時の南海は、正捕手に野村、控えに高橋・黒田がおり、1軍戦に出場することは難しかった。最初の4年間(1975〜1978年)には1軍での出場機会はないままだった。
 ようやくチャンスがめぐってきた1979年には、13試合に出場、うち11試合にマスクを被った。翌1980年にも23試合(マスクは16試合)、1981年にも14試合(マスクは12試合)に出場したが、打棒も振るわず、決して期待されていたわけではなかった。この頃の岩木は、打撃練習よりもむしろバントの練習をやっていた程だった。1981年オフに黒田が西武に移籍した後も、正捕手争いは香川・吉田、そして新入団の赤星の間でなされるものと考えられていた。
 が、赤星はプロの壁に当たり、吉田もケガをした結果、香川の弱肩を補うものとして岩木の存在が浮上した。守備がよく、パスボールも少ない岩木は、この年、香川を上回る91試合に出場した(マスクも91試合)。特に.359という盗塁阻止率(香川は.211)が岩木の売り物だった。もっとも、打つ方はさっぱりで、打率は.199(181打数)、本塁打はゼロだった。
 それでも、この年こそが岩木にとっては最良のシーズンだった。翌1983年には香川が台頭し、終盤に離脱するまで正捕手の座を占めた。岩木は打つ方では多少進歩したが(57打数で打率.228)、第2捕手へと転落した。盗塁阻止率も.222に低下し、香川(.247)に抜かれてしまった。
 30歳になる1984年のシーズンでは、不調の香川に代わり吉田博之が台頭し、岩木の出番はますます減った。特に後半戦はほとんど出場することができず、57試合の出場にとどまった。
 1985年にも19試合の出場しかできず、このまま引退に追い込まれていくかに見えた。が、1986年には吉田が骨折したため、やや出番が増えた。47試合に出場し、82打数というのは岩木にとっては2番目に多いものだった。が、相変わらず打てず、打率は.183だった。
 1987年には20試合、1988年には3試合の出場にとどまり、吉田、香川に次ぐ第3の捕手の座を森浩之に明け渡した。同年末のダイエーへの身売り時に引退し、以後はチームスタッフになった。


河埜敬幸というバッター

 河埜は1973年秋のドラフトで、南海にドラフト3位指名を受けてプロ入りした。八幡浜工時代に県大会で対戦した南宇和高の藤田学も、ドラフト1位で南海に入団した。運動能力が高く、特に腕力と脚力が優れており、将来の中心選手と見込まれていた。
 入団2年目(1975年)に9試合に出場、3年目(1976年)は49試合と、徐々に出場機会を増やした。そして翌1977年に110試合に出場、セカンドのレギュラーを桜井から奪った。この年の打率は.267、本塁打は1本も打てなかったが、強肩を生かし、むしろ守備面で内野の中心選手になった。
 5年目(1978年)には、バッティングマシンのボールで右手小指を骨折したために、開幕に間に合わなかった。が、8月中旬には規定打席に到達した。この年、チーム全体が打撃不調に苦しんでいたが、河埜は夏場には2割6分台の打率を確保していた(最終的には打率.246、3本塁打)。6年目(1979年)にはさらに飛躍を果たし、打率.300、13本塁打、25盗塁という自己最高のシーズンをおくった。
 ところが翌1980年にスランプに陥り、前期終了間際には打率1割台、最終的な打率も.231(10本塁打)にとどまった。8年目(1981年)には、シーズン前に左足親指の骨折で出遅れたが、最終的には打率.272(4本塁打)とやや持ち直した。二塁手として115試合で13失策(守備率.980はパリーグ2位)、遊撃手として27試合で4失策と、この頃まではまだ守備のミスは少なかった。
 27歳になった1982年のシーズンでは、前半戦で打率.303(6本塁打)を記録した。が、後半戦で落ち込み、最終的には打率.277(6本塁打)という成績にとどまった。この頃から、腰を痛めたせいか徐々に守備が悪くなってきた。
 10年目(1983年)には、5月に右足首を痛めたものの、前半戦では打率.294(6本塁打)とまずまず好調だった。が、最終的には打率.258(11本塁打)と落ち込んだ。
 南海はここで、セカンドに守備の名手・ドイルを迎えることにし、河埜は1984、1985年にはセンターにコンバートされた。守備位置までの全力疾走が話題になったのもこの頃のことである。センターにまわった河埜は好調で、全試合(130試合)に出場して打率.296、14本塁打を記録した。減りつづけていた盗塁も、この1984年には17を記録した。また、センターで8刺殺5併殺と強肩ぶりを披露した。
 この活躍が認められ、翌1985年には年棒が3100万円まで上がった(900万円増)。が、シーズンに入ると腰痛のせいで不振に陥り、5月末の打率は.204にとどまった。最終的に.237(8本塁打)まで戻したが、自己ワーストに近い成績だった。なお、この年の河埜は、外野を90試合守った以外に、セカンドを2試合、サードを5試合守っている。
 31歳になった1986年には、ドイルの退団により再びセカンドに復帰した。不安視された守備は無難にこなしたが(二塁守備率.989はリーグ2位)、打率.263(5本塁打)という冴えない成績に終わってしまった。このために2年連続の減棒で、年棒は2450万円にまで下がった。
 1987年には、セカンドを湯上谷に奪われ、春先には完全に控え選手になってしまった。それでも、打撃で意地を見せて出場機会を増やし、最終的に規定打席不足ながら打率.312(5本塁打)を記録した。が、守備力の低下は顕著で、セカンドでは56試合で10失策、サードでは38試合で3失策を犯した(この他、外野で3試合に出場)。
 33歳になった1988年には、当初はハモンド退団の後を受けてサードに入る予定だった。が、バナザードの獲得によりファーストが空席になったため、プロで初めて一塁を守ることになった。当初は藤本博との併用(サード:若井、ファースト:藤本博のパターン)だったが、やがて藤本博をサードに追いやった。この年の河埜は、夏場まで打撃が好調で、一時はトップバッターを務める程だった。最終的に打率は.276(5本塁打)まで落ちたが、存在感を示したシーズンだった。(この年、ファーストで106試合、3失策、サードで9試合、1失策)。
 ダイエーに身売りされた翌1989年には、河埜は杉浦監督から主将に任命された。年棒も大盤振る舞いで、自己最多タイの3100万円を獲得した。ところが新外国人のアップショーがファーストを守ったため、河埜は守る場所がなくなってしまった(河埜としてはアップショーがDHにまわることを望んでいたようである)。プロ入り後初めて代打専任になり、102打数しかチャンスがないまま、.216(0本塁打)という成績にとどまった(守備はファーストで5試合、セカンドで4試合、サードで4試合のみ)。まだ34歳だった河埜は、現役を続けるつもりだったが、新監督になった田淵によって引退に追い込まれた。


山田勉というバッター

 1977年春に大鉄高校を卒業し、その後4年間を社会人野球の松下電器で過ごした。松下では主に5番を打ったが、最後の1980年には、40試合で30盗塁という目立った成績をあげた。ベース1周14.1秒という快速で、高校・社会人の先輩である福本豊を目標にしていた。
 1980年秋のドラフトで南海の4位指名を受けプロ入りした。2年目の1982年には、ウエスタンで71試合に出場、打率は.269、本塁打は3本だったが、36盗塁をあげた。山田はこの年、2試合だが1軍に戦にも出場している。
 翌1983年には、ファームで64試合に出場し、打率.353で7本塁打、23盗塁をあげた。1軍では18試合に出場した。
 1984年には、外野の守備固めと代走で、1軍で83試合に出場した。打数は45、打率は.156にすぎなかったが、8盗塁をあげた。この年、ウエスタンでは22試合で打率.368、10盗塁と、山田は既に「超ファーム級」になっていた。
 1985年には、岡本の台頭もあり前半はファームでの出場が続いた。ウエスタンでは46試合に出場しただけだったが、打率.355で首位打者を獲得した(盗塁も17)。シーズン中盤以後、1軍でのスタメン起用が増え、1番を任されることも多くなった。打率は2割強にとどまっていたが、10月になって固め打ちし、最終的に.296という数字になった(75試合、98打数。盗塁は9個)。
 これで1986年には、2番・センターとしてスタメン定着を期待された。が、4月16日に右手親指に死球を受け、骨折してチャンスを逃してしまった。7月に再登録された後にも、8月29日に自打球を眼に受け、残りのシーズンを棒に振った。結局この年は、33試合で打率.247という成績しか残せなかった。
 それでも1987年には、左打者の佐々木とのツープラトンでセンターを守り、87試合、162打数と自己最多の試合・打数を記録した。7月末には打率は.309に達していたが、後半は佐々木に差をつけられ、最終的には.278にとどまった。また、試みた6盗塁が全て失敗に終わったのも痛かった。
 南海最後の年・1988年には、山本(高柳)−佐々木−ライトとレギュラーが固定したため、山田は守備固め要員に逆戻りした。出場試合は75、打数は87、打率は.241で0本塁打という成績にとどまった。岸川の台頭もあり、この年30歳になった山田の立場は苦しいものになっていた。
 その結果、広島の控え捕手・山中潔とトレードされ、ダイエーのユニフォームを着ることなくチームを去った。広島では1988年に不調だった外野陣に割って入ることが期待された。が、山崎・長嶋らが立ち直り、新外国人のアレンも好調だったため、ほとんど出番は得られなかった(1989年に18試合のみ)。高沢、ヤングらが加入した2年目(1990年)には1軍に上がることすらできず、オフに引退した。



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