1984年の南海ホークス(前編)


新外国人の獲得

 1983年の南海ホークスは、穴吹監督の下、7月半ばまで3位を保つ善戦ぶりを見せた。が、8月には選手層の薄さが露呈して転落し、最終的には5位でシーズンを終えた。それでも、野手では香川、投手では山内和、山内孝がリーグを代表する選手に成長し、池之上、井上、矢野、畠山、竹口らが次代の主力となる兆しを見せたのは収穫だった。1年前に比べると、未来への希望ははるかに鮮明なものになったといえる。
 それに、南海は83年のシーズン、実質的に助っ人らしい助っ人の手を借りずに戦っていた。在籍した3人の外国人は、ライトル(112試合、.258、11本)、高(9試合、.083、0本)、李(15試合、.244、1本)という成績であり、テリーとスティーブを揃えた西武、バンプとブーマーを揃えた阪急、クルーズとソレイタを揃えた日ハムなどに比べると大きなハンデを抱えていた。それなりに働いてくれる外国人が加わったならば、それだけで戦力が増強される筈だったのである。
 成績があがらず引退を決めていたライトルは、10月12日にその旨申し出て了承され、13日には帰国した。高、李の台湾勢も1軍で成績を残すことが出来ず、既に帰国を決意していた。高は9月になってから投手への再転向を試みたが、ウエスタンでも3試合で防御率7.27であり、日本での活躍を断念することにした。彼らは10月24日に塩見代表と話し合って退団、帰国を決めたのである。
 球団首脳が、彼らに代わる新外国人の獲得に乗り出したのは早かった。西武と巨人の日本シリーズが始まる前に永井取締役らが渡米し、3Aデンバーのナイマン内野手(28歳)を獲得した。守備位置は主に一塁で、190センチ90キロの巨体には長打力も備わっているというふれこみだった。デンバーでは107試合の出場で23本、90打点をあげ、終盤にホワイトソックスに昇格してからは21試合で打率.286、本塁打も2本放っていた。さらにもう1人、前監督のブレイザーの推薦で入団が決まったのが、3Aルイスビルのドイル内野手(27歳)だった。ナイマンの巨体に対して172センチ73キロという小柄な体型だったが、守備がうまく、ルイスビルでは127試合で打率.300、5本を打っていた。終盤にカージナルスに昇格してからは、13試合で打率.297(0本)である。
 彼らの加入で、セカンドの河埜がセンターにコンバートされ、新井がレフトにまわって、残るライトを山村、山本和らが争うことになった。また一塁手の池之上も追い出され、久保寺と三塁を争うことになった。また池之上と一塁を競っていた岡本も、ライトのレギュラー争奪戦に加わることになった。
 ちなみに『デイリースポーツ』は1月6日号で、早くも次シーズンの順位予測をしているが、プロ野球担当記者27人のうち、最下位に予想したのは1人だけで、5位が6人、4位が10人、3位が9人、2位が1人だった。5、6位が確定的と見られていた1年前に比べると雲泥の差である。


ドラフトとトレード

 11月22日のドラフト会議では、南海は左腕投手を指名するものと見られていた。一軍の左腕が竹口しかいないのだから、そう見られるのも当然だった。ドラフトの目玉としては、東海大学の高野投手、法大の銚子内野手、池田高の水野投手などがいたが、左腕投手ーそれも貧乏球団の南海としては高校生が望ましいとなれば、創価高の小野、興南高の仲田などの指名が予想された。
 案の定、南海は小野を1位指名したが、これは近鉄、日ハムと競合し、結局近鉄が交渉権を獲得した。そこで南海が選んだのは、倉吉北高の右腕・加藤伸一投手だった。同高は部員の暴力事件のため対外試合が禁止されており、加藤は3年生になってからは1度も公式戦に出ることはなかった。それでも、2年生の時にノーヒットノーランや17奪三振を記録しており、その実力は注目されていた。穴吹監督以下は加藤が投げた試合のビデオを何度も見て、指名を敢行したのだった。
 2位以下は次の通りである。2位山口裕二(佐賀龍谷高、外野手)、3位岸川勝也(佐賀北高、内野手)、4位山中律俊(印旛高、内野手)、5位西浦敏弘(近大、内野手)、6位佐々木誠(水島工、投手)。この年、高校生の野手では通算49本塁打の藤王(亨栄高)が中日に1位指名されたが、山口は俊足の上同じく49本を放っており、首脳陣の評価は高かった。3位の岸川は、阪神との競合で仲田を奪われての指名だったが、彼も40本塁打を放っているスラッガーだった。5位の西浦も大学通算19本の強打者である。最後の佐々木は日ハムとの競合に勝っての指名だが、周知のように彼が一番成長することになる。
 しかし、入団交渉はなかなか大変だった。加藤と山口は大学への進学を希望していたし、西浦は腰痛を理由にプロ入り拒否を宣言していた。入団交渉は難航が予想され、穴吹もドラフト直後に、場合によっては玄関にゴザを敷いて座り込むとまで語っていた。加藤の場合、特に父親の反対が強かったが、これは穴吹の出馬により解消され12月1日に入団が決まった。山口も難航したが、12月15日に内定にこぎつけた。最難関は西浦だったが、医者に腰がかなり良くなったと診断され、15日に入団が決まった。体調が良ければドラフト1位でもおかしくなかった逸材の入団に、球団は率先して西浦後援会の設立に動いた程だった。この他、3位の岸川は4日に、4位の山中は11月28日に、6位の佐々木は11月27日に入団が内定していた。
 なお、この年のドラフトは、全般にかなりの当たり年だったようである。南海が指名した加藤、岸川、佐々木はその後大活躍するが、西武の渡辺久、辻、阪急の星野、日ハムの白井一、津野、近鉄の小野、吉井村上光山、巨人の水野、香田、広島の川端、小早川、紀藤、大洋の銚子、大門、阪神の中西、池田、仲田、中日の仁村、山本昌、ヤクルトの高野、池山らも中心選手になっている(青字は2001年シーズンも現役。佐々木、渡辺久は除外。ちなみに古田も彼らと同級生)。
 この他、選手に異動について述べておくと、このオフに南海は山内新を放出している。エース・小林が引退して先発要員が欲しい阪神の要求に応えたものだった。ただし、当初は左腕・益山との交換が予定され、益山が引退を決めると故障中の左腕・藤原が交換要員にあげられていた。それが結局は無償トレードになったわけだが、山内もファームで新球・シンカーを習得しており、阪神で7勝して復活するので、やや勿体なかった感じはする。さらに、代走役の岡も阪神に移っている。またトレードの大本命・森口は、巨人が新浦との交換を打診してきたが、復活の兆しがあるとして南海側は拒否した。その代わりに藤田学を交換要員に立てたが、今度は巨人が拒否し、この件はまとまらなかった。ただし、右の代打を熱望する巨人に山本雅を譲り、代わりに未完の大器・鈴木伸(24歳、この年一軍で初本塁打)を貰うという交渉はまとまった。
 このオフ、加藤秀が大阪への復帰を希望して近鉄に移り、江夏も移籍を志願して西武に転じている。加藤秀は2、3球団から打診されたということなので、ひょっとすると南海も譲渡を希望したのかもしれない。しかしその件はまとまらず、この他の補強は、広島からの中尾内野手(31歳、通算40安打)、西武で余剰状態になっていた若手の藤村、大津投手にとどまった。なお、藤田学を交換要員に、大洋の控え捕手・高浦(31歳、この年は47試合で打率.247、3本)や左腕の久保投手(21歳、この年23試合で0勝1敗)を狙ったが、結局この件も断られている。大洋は右投手の山口(25歳、この年14試合で1勝0敗)か堀井(25歳、この年13試合で0勝1敗)を立てていたようだが、堀井は2年後には7勝2Sの成績をあげた。後知恵だが交換してもよかったことになる。
          →参考 藤田学の大洋へのトレード不成立の件

それから、参考までに年棒ランクを示しておく。

門田 4800万円
ナイマン 3000万円
新井 2800万円
金城基 2400万円
ドイル 2400万円
河埜 2200万円
山内和 2050万円
定岡 2000万円
山内孝 1800万円
久保寺 1720万円
香川 1440万円
藤田学 1300万円
山村 1240万円

 まだこの年も、プロ野球界の年棒は高騰しておらず、全体に低めである。門田は3400万円から、タイトル料込みながら4800万円へとアップしたが、既に山本浩二や掛布、落合は6000〜7000万円台に突入していた。もう少し高くてもいいような気がする。
 それから外国人選手については、西武がスティーブ(6500万円)とジェリー(5700万円)、阪急がバンプ(1億円)とブーマー(3500万円)、近鉄がマネー(9600万円)とデュラン(1500万円)という状況だったのだから、2人で5400万円の南海はやはり少ないことがわかる。日ハム、ロッテも少ないが、それでも6300万円と6700万円である。

キャンプとオープン戦

 83年のシーズンが一応成功裡に終わったこともあり、南海の首脳陣はほとんど交代しなかった。他球団では、日ハムの大沢監督が勇退し、後任には植村投手コーチが昇格した。また近鉄の関口監督も辞任して、南海OBの岡本伊佐美が監督に迎えられた。山本一義監督が辞任したロッテは、後任に要請された稲尾和久が受諾の条件として球団の九州移転を提示した。このため少し時間がかかったが、結局稲尾が折れて監督に就任した。
 南海の一軍首脳で代わったのは、打撃コーチだった。福田コーチが中日に引き抜かれ、後任にはロッテ監督を辞めたばかりの山本が就任することになった。穴吹、藤原、河村以下は全員留任である。その中でも特に河村投手コーチの精力的な活動が目立っていた。若手投手陣には12月20日まで練習を続けさせ、翌84年のキャンプでも若手を積極的に鍛え続けた。その熱血ぶりが、ちらほらと週刊誌の記事にもなり始めた。
 年が明けて1月8日から、一軍の合同自主トレが始まった。畠山・大久保・山川らの「19歳トリオ」をはじめとする12人が参加した。次いで15日からは二軍の合同自主トレも開始された。このトレーニングに、15日からはナイマンが、18日からはドイルが参加して周りを驚かせた。外国人選手は2月のキャンプから参加するのが習慣だったので、「真面目ガイジン」ということで注目されたのである。しかし、一方でナイマンのような真面目な選手(しかも彼は酒も煙草もやらない菜食主義者だった)がいるかと思えば、もう一方で香川の乱れっぷりは相変わらずだった。1人で持久力をつけると言って冬季練習と一軍の合同自主トレには参加しなかったが、15日には一段と太くなって現れた。体重は113キロだったという。
 さて、この年のキャンプも相変わらず呉で行われたが(2月8日から)、1年前よりも施設は充実していた。呉市が2億5000万円をかけてつくった屋内練習場があったため、雨の日も夜間も練習しやすくなったのである。このキャンプでの南海の売り物は、畠山、大久保、山川、青井に藤本修を加えた「19歳クインテット」だった。彼ら5人が一軍投手として、二軍の大坪、加藤らと競い合い、力をつけていったのである。
 この中で、違う意味で話題をさらったのは、同期生に交じり一軍に昇格した藤本修二だった。12日の夜、公園でノラ猫に餌をやろうとして右手の人差し指を噛まれ、化膿してしばらく投球ができなくなったのだった。前代未聞のこの事件で、藤本の渾名が「ニャンコ」になったことは一部では有名である。この後、大坪が昇格したり、完治後の藤本や加藤が速球を見せつけるなど、若手投手陣には活気があった。しかし、対照的に評価を下げ続けたのはナイマンだった。「まだ早いと」言ってハーフスイングを繰り返し、紅白戦でも打てない彼に、穴吹監督も呆れ始めた。そして監督自身が「何もナイマン」という渾名さえつけたのだった。
 そのナイマンは、オープン戦が始まるとそれなりに打ち始めた。が、さらにそれを上回る活躍ぶりを示したのはドイルだった。3月4日の初戦にはヒット2本と1盗塁、7日の3戦目にはサヨナラ打を含む2安打と好調に滑り出した。最終的には.383で、しかも18日にホームランを連発したことでクリーンナップに据えられることになった。また門田も、11試合で5本を放つなど好調で、今年こそ背番号の数字の60本を狙うと意気込んでいた。
 また球威を生かして抑えにまわされた森口も、毎試合のように登板したが防御率0.96と絶好調だった。抑えの本命・金城基は右足首を痛めて調整が遅れていたので、しばらくは森口がストッパーを務めることになりそうだった。この他、意外な復調ぶりをアピールしたのは藤田学だった。3月10日、15日と先発したが12イニングス連続無失点で、先発入りを確定させた(もっとも23日には3回で9安打される乱調だったが)。また竹口も、好不調の波があったが、防御率0.96と好調だった。
 対照的に頭打ちになったのは「19歳クインテット」の方だった。まとまりのよい大久保は一軍に残ったが、その他は次々に離脱してしまった。最も期待された畠山も、紅白戦でコントロールの悪さから打ち込まれ、フォーム改造を指示されてしまった。畠山は前年、一軍ではノーワインドアップで通していた。それをワインドアップも交えるようになったため、バランスが崩れてしまったのだろうか。しかし急遽フォームを直し、一軍テストとなった3月20日の試合では、3回1安打無失点と快投を見せた。このためなんとか滑り込みで一軍に登録されたのだった。
 このような南海の調子のよさを反映してか、オープン戦にもかなりの観衆が集まった。3月22日の大阪球場での巨人戦には、1万3000人が足を運び、25日の阪神戦には2万3000人が訪れた。

戦力分析

ここで、開幕を迎えるに当たっての、各チームの戦力事情についてまとめておく。

南海投手陣

前年度成績
山内和 18−10−0 オープン戦でも防御率1.93と好調。最低15勝と宣言した。
山内孝 10−14−0 20勝しないうちは髭を剃らないと宣言。期待がかかっていた。
井上 6−10−3 10日の試合で打ち込まれたが、その後2試合に好投した。先発に専念予定。
矢野 5−6−1 順調に調整を終えた。先発候補。
竹口 2−3−1 四球連発が陰を潜め、オープン戦は絶好調。先発候補。
畠山 0−3−0 なんとか滑り込みで一軍入り。先発候補。
藤田学 2−6−0 意外な復調ぶり。先発候補。
大久保 2−1−0 2年目。中継ぎで登板予定。
大坪 0−0−0 中継ぎで登板予定。
加藤 ファームで好投。そのうちに一軍?
藤本 ファーム落ちしたがすぐに一軍復帰の予定。
森口 1−2−0 抑え役として復活の期待。
金城基 4−4−15 抑えを予定。が、足首を痛め調整が遅れていた。

 南海投手陣は12球団1の若い投手陣だったので、全体の底上げは容易に期待できた。前年は、山内和、山内孝が投げない時はバクチのようなものだったが、井上、矢野、竹口、畠山などが台頭してきていた。それに、打線が増強された分楽になることも予想できた。抑えも森口が務められるなら、金城基の負担も減ると考えられた。

南海野手陣

前年度成績
河埜 .258−11 オープン戦は.352と好調。守備位置までの全力疾走を始めた。
新井 .290−5 確実に数字を残す筈の選手。
ドイル 守備に打撃に、大きな期待。
門田 .293−40 好調を持続。ホームラン王候補。
ナイマン 実戦ではどうか?
香川 .313−15 弱肩だが打撃になると生き生き。
山村 .294−6 好調が続くか?
久保寺 .263−11 オープン戦ではショートも務めた。打撃好調。
定岡 .257−9 肋骨を痛めオープン戦はほとんど出られず。
岩木 .228−0 貧打だがリードはうまい。
吉田 .159−0 そろそろ活躍しないと。
池之上 .265−7 新選手会長だが、一塁を追われ急に目立たなくなった。
岡本 .250−6 ライトを山村と争っている。
立石 .191−1 内野の控え。パ・リーグ初の背番号0。
中尾 .261−0 広島から移籍。守備はうまい筈。
高柳 .279−2 一発がある。代打の切り札を予定。
山本和 .233−2 移籍2年目。守備がいい。
山田 .238−0 若手のホープ。足も速い。

 打線は5割増と報じられていた。ナイマンはまだわからなかったが、ドイルの分は確実に戦力アップしたものと考えられた。マークが分散する分、門田が楽になることも計算できた。守備は弱肩の香川は相変わらずだったが、内野はドイルが入り、久保寺も慣れたためまずまずのものだった。ナイマンも3Aで最高守備率を記録したことがある名手だった。外野はライトルが抜けた分、僅かに弱くなった印象である。


 他球団については、以下のような状況だった。
 まず西武は、江夏が日ハムから移籍して、あり余る戦力がさらに増強された印象があった。オープン戦で秋山という新戦力も台頭していた。ただし、テリーが大リーグに復帰して、やや小粒なジェリーに代わった分、打線は僅かに弱くなった。また、江夏、高橋直、田淵、山崎、大田らのベテランが額面通りに活躍できるかという問題もあった。が、総合力ではやはりパ・リーグ1と見られていた。
 これを追うのが阪急だった。もともと地力のあるチームなので、歯車が噛み合いさえすれば優勝争いも可能と見られた。蓑田、水谷、ブーマーを中心とした打線は西武にひけをとらなかった。ただ抑え投手だけが足りなかった。また日ハムは、36本塁打のソレイタに代えて入団したブラントに使えるメドが立っていなかった。投手陣も江夏が抜け、高橋一は引退し、工藤は故障し、木田は不調だった。おまけに前年度に手術した間柴も、開幕には間に合いそうになく、Bクラス転落もあり得ると見られた。
 前年度4位の近鉄は、大物外国人のマネーと加藤秀を獲得していた。前年は外国人と中堅投手陣が総崩れだったが、打線には勢いが戻っていた。あとは、谷、久保、柳田、村田、山口らの中堅投手陣の復活待ちだった。最下位だったロッテは、巨人から山本功を獲得したが、それ以外には大きな選手の移動はなかった。西村、高沢らは力をつけてきていたが、前年に負けすぎたこともあり、そのまま最下位に予想する評論家が多かった。

開幕

 開幕は3月31日だった。南海はいきなり西武との3連戦を行うのだった。西武叩きを宣言する穴吹監督は、当然のように山内和、山内孝の両エースをぶつけた。
 第1戦は3回に、ドイルの逆転3ランが飛び出した。さらに6回には定岡のが満塁弾で東尾をKO、先発の山内和は4安打1失点(自責0)で完投勝ちを飾った。この試合、ドイルは3安打で、ナイマンも2安打で打点をあげた。穴吹監督は、外国人が頼れそうで門田以外の柱ができたと喜びの談話を発表した。

○山内和(1勝0敗)
ドイル1号、定岡1号

南海
西武


打数 安打 打点
河埜
新井
ドイル
門田
RD 山田
ナイマン
香川
池之上
吉田
山村
久保寺
定岡


山内和

 第2戦では、香川の内野安打で先制した南海が、3回に岡本の3ランで突き放した。岡本は前年、松沼弟に11打数ノーヒットだったが、ひらめきで起用した穴吹の賭けが見事に当たったわけである。このリードを山内孝が守りきった。3安打完封、しかも3塁も踏ませない完璧なピッチングだった。これは「髭の山内」になって初めての勝利だった。
 第3戦も、高柳が代打ホーマーを放ち南海ペースの試合だった。井上を本拠地開幕に温存し、先発となった藤田学もまずまずの投球をしていたが、竹口と森口が四球連発で逆転されてしまった。それでも西武相手に2勝1敗、好発進である。
 翌4月3日は大阪球場での開幕ゲーム、相手は近鉄で先発は井上だった。この試合は、ナイマンが1号本塁打を放ったものの、近鉄のマネー、デュランの2ランが飛び出し敗戦となった。さらに5日も、山内和が近鉄を3点に抑え、香川と門田が初ホーマーを放ったものの、1点差での負けになった。連勝で好発進したものの、早くも借金1である。
 この後の阪急との3連戦では、森口が登板した2試合とも打ち込まれてしまった。その代わり金城基が、登板した2試合にいずれも完璧な投球を見せ、8日には初Sをあげた。またナイマンはこの間2本塁打を放ち、苦手の阪急戦を1勝1敗1分で切り抜けた。
 次のロッテとの3連戦には、ここまで期待はずれ気味の森口が好投した。1戦目は終盤に逆転勝ちを収めたが、7、8回を抑えた森口が勝ち投手になった。3戦目にもロングリリーフで4回2/3を無失点に抑え、同点に追いつく立役者になった。また2戦目は水上のエラーで逆転勝ちを収め、この段階で南海は貯金を1つつくっていた。
 しかし13日からの日ハム3連戦には1勝2敗で、またも勝率5割に逆戻りとなった。竹口、矢野らの若手投手は今ひとつ安定性に欠け、負け試合では好投するが、肝心なところでは打たれるというパターンが続いていた。しかも14日の試合では、ホームランを打った門田がハイタッチで右肩を脱臼するという事件までが起こってしまった。その上、先発3本柱の一角を予定した井上が尿路結石であることが発覚、さらに腎炎であることも判明し長期離脱を余儀なくされた。
 このような状況の中、チーム崩壊を支えていたのは、安定した投球を続ける山内和(2勝1敗)、山内和(2勝0敗)、金城(4S)らに加え(いずれも15日現在)、プルヒッティングに戻した定岡だった。前年、右打ちを覚えて打率を上げたが、引っ張り打法に戻して18試合で7本塁打と量産していた。
 門田は3試合に欠場した後、20日に代打で復帰したが、この時点でチーム成績は6勝8敗3分となっていた。首位は新外国人マネーが引っ張る近鉄で、10勝6敗0分である。
 ずるずると沈んでいくチームに変化が起こったのは、21日の阪急戦だった。この試合、プロ入り初登板の藤本修二が、ブーマー、蓑田らがいる阪急打線を8回まで0点に抑えたのである。最後は金城の救援を仰いだが、4対1で快勝し、待望の若手先発投手の登場となった。
 翌22日に、山内孝が1失点で勝ち、勝率を5割に戻した後、24日には畠山が先発した。キャンプ終盤以来、フォーム改造で苦しんできた畠山だったが、この試合では8回まで1失点と日ハム打線を抑え、金城の救援でプロ入り初勝利をあげた。これでチームは9勝8敗3分となり、2位に浮上した。
 この後、25日には、ナイマンのエラーの直後に山内和が満塁弾を打たれ敗戦、26日には土壇場で追いつかれて引き分けとなった。が、28日からの西武3連戦は、ゴールデンウイークということもあり、大阪球場には3日で6万5000人の観衆が集まった。その初戦は山内孝が1失点で完投勝利し、穴吹監督の景気のいい談話が飛び出した。いわく「西武も戦力をそろえて欲しい。強い西武に勝ってこそ価値があるからね」。優勝候補と目されつつも、調子があがらない西武への皮肉である。
 29日の第2戦は、好投した山内和の後を継いだ矢野が打たれ、1点差を追う展開となった。が、8回に江夏から門田が同点弾を放ち、さらに新井のタイムリーで勝ち越し、最後は金城が締めて南海が勝利した。3戦目は畠山が打たれて負けになったが、ドラフト1位の加藤が初登板した。2回2/3を1安打1失点と上々の滑り出しに、穴吹監督も賛辞を寄せた。これで結局南海は、11勝10敗4分の成績で4月を終えることになった。

4月終了時の各チームの成績は以下の通り

勝敗分 勝率
近鉄 13−10−1 .565
阪急 13−11−2 .542 0.5
南海 11−10−4 .524 0.5
西武 10−11−2 .476
ロッテ 9−11−3 .450 0.5
日ハム 10−13−2 .435 0.5

 近鉄は、新加入のマネーの活躍と、前年総崩れだった中堅先発陣が立ち直ったことで首位をキープした。特に柳田、谷宏の復活が大きかった。2位の阪急は、開幕戦で4番の水谷が死球で倒れるというアクシデントがあったが、地力を発揮して2位になった。特に2年目のブーマー、蓑田が好調で、今井は5勝をあげていた。本命の西武は、ベテランに一気に衰えがきたようだった。前年13勝の高橋直は調整が遅れ、大田はぎっくり腰で登録抹消、山崎は打率1割台という惨状だった。しかも江夏とダブルストッパーを組む予定の森が、上腕を痛めてリタイヤしていた。
 ロッテでは、前年不調だった庄司が復活、移籍の山本(功)と若手の高沢も3割を保つ活躍を見せた。が、落合、リーの主軸はまだ不調だった。日ハムは、高代が靭帯断裂で離脱、新外国人のプラントも不調でファーム落ちした。チーム力の低下は開幕前から予想されていたが、状態はそれ以上に悪く、最下位に転落してしまった。ただ、打撃投手あがりの坂巻の活躍は明るい話題だった。

 南海では、打撃ベストテンに門田(5位)、ナイマン(7位)、河埜(10位)らが入り、定岡が本塁打を量産していた。久保寺も規定打席不足ながら3割5分台の打率を残した。ドイルも.278とまずまずの数字をあげていた。誤算は、前年3割の香川が不調なことだった。内角攻めに苦しみ打率は1割台で、スタメン落ちすることも多くなった。また前年2割9分の山村はまだノーヒットだった。投手では、負け無しで4連勝の山内孝、同じく7Sの金城の活躍が目立った。ただ、竹口は相変わらず不安定で、矢野も右膝を痛め調子はよくなかった。

5月ー一次は首位に

 5月2日の近鉄戦は、藤本修二が踏ん張り完投したが、結局4対4の引き分けとなった。続く3日の同カードは、南海が打力でものにした。まず3回に、ナイマンが橘から6号満塁弾を放ち、さらに連打連打でこの回7点を奪った。先発の竹口は不安定で、5回4失点で降板したが、ナイマンの7号などで加点し、結局10対7で逃げ切った。首位近鉄を下したことで、南海はこれと入れ替わり、(20試合消化時点では)4年ぶりに首位に立った。
 この試合でも金城が最後を締めくくり、8つ目のSを上げたが、この快進撃の陰には彼の活躍があった。

金城基の成績

ゲーム 個人成績 評価
4月7日
4月9日
4月11日
4月12日
4月13日 1/3 ○(同点を守る)
4月16日
4月18日 ×(庄司に打たれ同点に)
4月22日
4月25日
4月27日 2/3 ×(9回同点にされる)
4月30日
5月4日

 ここまで12試合に登板し、12回で8安打、自責点は1、0勝0敗8Sで、防御率0.75という成績である。12回のうち、同点にされた試合も2つあったが、いずれも同点のまま守りきっているのも評価できる。ここまでの南海の勝ち星は12だったが、そのうち8つが金城にSがついた試合であり、その貢献度は67パーセントにも達する(ちなみにあとの4つのうち、3つは山内孝が完投したもの、1つは山内和が完投したもの)。
 南海はこの後もしばらく首位に立ち続けた。4日のロッテ戦には山内和が完投し、打線も前年5敗の苦手・水谷を打ち崩して7対3で勝った。この好調さに刺激されてか、5日、6日の連休は大阪球場にそれぞれ2万1000人が集まった。その観衆に応え、5日には代打高柳の2塁打などでサヨナラ勝ちを収め、新人の加藤が初勝利をあげた。翌7日には金城が打たれて引き分けとなったが、それでも依然チームは首位に立っていた。
 8日の西武戦には、藤本修が1失点で完投勝利を収めた。これで登板した3試合で8回、9回、9回と投げ、防御率は3.12、2勝0敗という安定ぶりである。さらに9日にも山内孝が完投勝利を収めた。山内孝は開幕5連勝、チームは16勝10敗6分で、勝率は.615に達した。この好調さに応え、翌10日には1万8000人が大阪球場を訪れ、3連戦では平日でありながら4万6000人の動員となった。しかし10日のゲームは、山内和が崩れて連勝は5で止まり、定岡もアキレス腱を切る事故を起こしてしまった。以後、サードの久保寺がショートにまわり、サードには立石が入る布陣となる。
 このように好調な南海だったが、阪急も負けず劣らず絶好調だった。前年、3割・30本・30盗塁を達成した蓑田が、打率と本塁打でトップを独走、打点もブーマーと1、2位を争ってチームを引っ張っていた。また山田、今井、佐藤も勝ち星を重ね、久しぶりに「強い阪急」が戻ってきていた。この阪急と南海の首位攻防3連戦が11日から行われた。
 初戦は初先発の加藤が山田と投げ合った。加藤は阪急を4安打3失点に抑える好投を見せたが、打線も山田に2点に抑えられ、2対3での惜敗となった。これで8日間守った首位の座から陥落である。2戦目は畠山が完投、打線も門田の7号などで得点を重ね、9対3で大勝した。その結果、チームは首位に返り咲いた。
 しかし3戦目、藤本が完投したものの、打線も佐藤に封じられて2対4で負け、近鉄にも抜かれてチームは3位に転落した。近鉄も、柳田や谷宏らの中堅先発陣が復活し好調だったのである。その近鉄とは15日から直接対決となった。初戦は加藤で勝ち、2戦目は畠山で負けて1勝1敗である。
 この後18日の日ハム戦に山内孝で勝ち(開幕6連勝)、近鉄、阪急に0.5差まで肉薄した。この試合、門田が8号を、ナイマンが9号弾を放った。さらに19日には、門田が9、10号を連発、定岡の代役の立石も満塁弾を放ち大勝した。先発の藤田学は、7回まで3失点でシーズン初勝利をあげ、チームは2位に浮上した。
 しかしこの後、チームは4連敗してしまった。山内孝も23日の近鉄戦で打ち込まれ、連勝は6で止まった。これで3位転落、首位阪急には3ゲーム差まで離されてしまった。なお4連敗の間、竹口は毎試合敗戦処理で登板したが、8回2/3回で4安打、無失点である。プレッシャーがないと好投できる、全く竹口らしい投球だった。
 25日のロッテ戦に、ナイマンが10、11号を連発して引き分けた後、26日の同カードが1週間ぶりの勝ちゲームとなった。先発の藤田が7回まで3失点と持ちこたえ、久保寺の満塁弾などで10対4と快勝したのである。しかし27日には、藤本と加藤が打ち込まれた。門田とナイマンがそれぞれ12号を放ち、蓑田に1本差に迫ったのだが、それを生かすことができなかった。28日は杉本に完封され、29日にも打線が畠山に応えられず2対3で惜敗し、貯金が0になってしまった。おまけに、定岡の代役の立石も右足を剥離骨折した。
 それでも30日には、代役の代役・池之上の活躍もあり、なんとか勝利を収めた。山内和も久々に好投し、借金生活への転落は防ぎ止めたのである。

5月終了時の各チームの成績は以下の通り

勝敗分 勝率
阪急 30−16−4 .652
近鉄 25−19−4 .568
南海 22−21−7 .512 2.5
ロッテ 18−21−8 .462
西武 21−25−2 .457 0.5
日ハム 15−29−5 .341

 阪急はこの月17勝5敗2分で、一挙に飛び出した。水谷の離脱をカバーするように、蓑田、ブーマーが三冠争いを演じチームを引っ張っていた。山田、今井、佐藤らの主力投手も全員好調だった。近鉄は、新外国人のマネーが、球場やマンションの汚さを理由に突如退団するトラブルがあったが、この月も12勝9敗3分と好調を維持していた。エースの鈴木啓は5月5日に300勝を達成してますます元気で、大石や平野の打撃陣も好調だった。
 ロッテはこの月9勝10敗5分だった。高沢が首位打者争いに参入したのが注目された。また、西井がストッパーに定着して、ここまで3勝3Sというのも明るい話題だった。西武は11勝14敗と調子があがらず、ついに5位にまで転落した。抑えの江夏も万全ではなく、復帰した森もいきなり打ち込まれた。新外国人のジェリーがようやく本塁打を量産し始めたが、田淵や石毛の調子は下がり気味だった。日ハムは、この月5勝16敗3分とどん底だった。好調なのは、外国人のクルーズと中継ぎに定着した坂巻ぐらいで、投手陣は潰滅、打線も低調だった。

 南海は、この月は11勝11敗3分で勝率は5割だった。山内孝は好調を維持し、山内和もそれなりの投球を続けていた(ただし山内孝は、23日の大量失点で防御率を1点以上悪くしてはいた)。3番手に予定された井上が離脱したのは痛かったが、藤本修、畠山がローテーション入りを果たし、藤田学もまずまずの投球を続けていた。抑えの金城基は、チームが不調の5月後半には登板が減ったが、それがよい休養になっていると考えられた。また新人の加藤も、セットアッパーとして頭角を現しつつあった。彼ら「未成年トリオ」は、不安定な竹口、矢野を押しのける勢いだったといえよう。
 打撃陣では、ナイマンが13本塁打(3位)、門田が12本(4位)を放ち、懸案の長打力不足が解決されつつあった。門田は打率も8位で、河埜が11位、ナイマンが14位と続いていた。ただ、ドイルは調子を崩し、打率は.249まで下がっていた。香川の打率も依然1割台だった。



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