1983年の南海ホークス(前編)


穴吹新監督の誕生

 1982年のシーズン、南海ホークスは53勝71敗の最下位に終わった。5年連続のBクラス、しかもその間の順位は、6・5・6・5・6位というひどいものだった。また、観客動員も5年連続で12球団のビリであり、82年には43万9000人しか集めることができなかった。1試合平均で7300人という計算になる。まさにチームはどん底に沈んでいたわけである。こうなったきっかけは、1977年オフのプレイングマネージャー・野村克也の解任騒動にあった。これは、野村の愛人(当時)だった沙知代の、チームへの介入をめぐるトラブルだったとも言われるが、野村派の江夏・柏原らは他球団へ去り、チームは急激に弱体化した。そして、出口の見えないトンネルへと突入したのである。
 野村の後を継いだ広瀬監督の後を受け、3年間監督を務めたブレイザーの辞任が報じられたのは、1982年10月11日のことだった。「シンキング・ベースボール」を掲げた彼も、その目標を日本で達成することはできなかった。あと1年の契約を残していたが、監督を辞めることになった。彼の辞任は、正式には翌12日ということになった。この日ブレイザーは、南海電鉄本社に川勝オーナーを訪ね、健康の不安を理由に辞表を提出したのである。
 川勝は、後任に二軍監督の穴吹義雄を指名した。穴吹は南海黄金時代の巧守の外野手であり、引退後は長く二軍監督として若手の育成に当たっていた。この日は甲子園球場で、関西教育リーグ(近鉄、阪神、南海、中日)の練習試合を見守っていたが、オーナーの要請に応え、監督を引き受けることにしたのである。
 
監督となった穴吹は、積極的にチームの再建へと乗り出した。まず、チームの核弾頭を務めてきた藤原満を引退させ、ヘッドコーチに据えることにした。ブレイザー時代には、ヘッドコーチも日系2世の与那嶺であり、投手コーチのシュルツと合わせた3人の首脳が外国系の人材で占められていた。その適否は即断できないが、少なくとも観客動員にはマイナスとなったと言われている。穴吹が観客動員のことまで重視したかはわからないが、少なくとも外国人首脳部を総入れ替えして、気分の一新を図ろうとしたものと思われる。
 コーチ就任を依頼された藤原は、俊足・巧守・巧打の三塁手だった。36歳になったこの年は、125試合で打率.262、本塁打は3本という成績にとどまったが、前年には3割を打っていた。引退は早すぎるという声もあったが、チーム再建への意志を優先させたのだろう、藤原は17日にこの件を了承した。そして早速、翌日からの秋季練習にはヘッドコーチとして参加したのである(江本孟紀は藤原の引退について、用具がよくなって持ち味のポテンヒットが出にくくなったからと記している)。さらに投手コーチには河村英文が、打撃コーチには穴吹と同期入団の福田昌久が就任することになった。コーチ陣はおいおい定まっていくが、それまでの首脳陣が総入れ替えされた観がある。
 一方、選手の陣容については、台湾アマ出身の2人に期待する姿勢が強く打ち出された。この年の南海には、タイロン、ダットサンの他、高、李という2人の台湾出身選手がいた。来日2年目で、この年高は31試合に出場して打率.243(本塁打なし)、李は10試合で.182(本塁打2本)という成績だった。この2人の成長に期待して、アメリカ人選手は1人にするというのである。ダットサンは47試合の出場にとどまり、打率.236(6本)という成績だったので既に戦力外だったが、穴吹は残るタイロンをも、新外国人と入れ替えるつもりだった。タイロンは強肩外野手として活躍したこともあったが(80、81年と両リーグ最多補殺)、この年は打率.271(13本)にとどまり、守備でもミスが目立っていたのである。
 穴吹がまず目を付けたのは、3Aウイチタの長距離砲・フェルプス外野手だった。が、この交渉はまとまらず、結局タイロンの後釜には、6年間広島に在籍したライトルが入ることになる。次善の策ではあったが、ライトルも強肩でならした外野手である(78、79年とセ・リーグ最多補殺)。しかも、衰えたといっても、82年には126試合に出場、打率.270で本塁打24本の成績をあげていた。少なくとも、タイロンよりは戦力になると考えられたのだろう。
 また、日本人選手では、藤原が抜けた後の三塁に久保寺がコンバートされることになった。南海の内野陣は、一塁が岡本・山本雅、二塁が河埜、遊撃が定岡という構成だったが、久保寺は外野も含めてあらゆるポジションを守っていた。82年は112試合で打率.264(4本)という成績である。彼は教育リーグにも三塁で出場することになった。
 それから特記しないといけないのは、藤田学投手のことであろう。1977・78年と連続16勝をあげた彼も、肘を壊してからは不調にあえいでいた。81年には13勝とやや復調したが、82年には6勝(8敗)どまりだった。穴吹の就任にあたって、トレード話が出される程に苦しい立場に追い込まれていた。その彼が一念発起して、冬の間もトレーニングを続けることになったのである。
 このように精力的に動き出した穴吹に、マスコミは「ブルドーザー監督」のあだ名を与えた。175センチ、90キロのがっしりした体格にも似合ったあだ名だと言えよう。その動きはファンにも受け入れられたようで、11月23日のファン感謝デーには前年の3倍の観衆が集まった。

ドラフトをめぐって
 やがてドラフト会議を迎える。が、南海にはドラフトについて前年からやり残したことがあった。前年、ドラフト5位で指名し、入団拒否のまま1年が経とうとしていた岡本光投手(松下電器)の件である。交渉権はまだ残っていた。岡本の心境の変化を期待して、11月の初めに再び交渉が始められたのである。しかし岡本は巨人の志向が強く、この件はまとまらなかった。結局岡本は、この年のドラフト2位で巨人入りすることになる。
 さて、そのドラフトである。この年の目玉は、早実高の荒木大輔(ヤクルト入り)、法大の木戸(阪神入り)、西田(広島入り)、田中富生(日ハム入り)、市立川口高の斎藤雅樹(巨人入り)などであった。マスコミは、南海が田中富生か拓銀の中村弘道を指名するものと見ていた。が、11月25日のドラフト会議で南海が1位指名したのは、池田高校の甲子園優勝投手・畠山準だった。畠山は国体終了後、プロ入り志望を表明し、全球団OKだと語っていた。が、11月7日の家族会議で、南海・近鉄・ロッテは拒否することになったという報道もなされていた。南海はそれを承知で、敢えてこの指名を行ったのである。
 単独1位指名を伝えられた畠山は、笑顔で記者会見し、「香川とバッテリーを組みたい」「3年後、2ケタ勝利を目指す」という抱負を語った。しかし家族は大学進学を勧め、畠山の南海入りは難航することになった。穴吹監督は「たとえ土下座しても」の台詞を用意して徳島を訪ねたが、家族の猛反対に遭った。しかし最後には、畠山自身が「石にかじりついても頑張るので、好きなようにさせてくれ」と家族を説得し、12月7日に入団交渉がまとまった。背番号11、契約金は高校生としては破格の5000万円が出されることになった。
 また、2位以下は次にように入団が決まった。2位・大久保学(投手・静岡高)、3位・青井要(投手・尽誠学園高)、4位・山川周一(投手・崇徳高)、5位・藤本修二(投手・今治西高)。(6位指名の森田芳彦(内野手・鹿児島鉄局)は拒否)。畠山以下、高校生投手ばかり5人という思い切った指名である。チーム再建を長期的ビジョンにもとづいて行おうという理念が読み取れる。あるいは、契約金が高額な社会人・大学生の指名を避けたという見方も可能かもしれない。
 この後、12月には、その後南海を支えることになる2人の選手の移籍が決まった。1人は、近鉄を自由契約になりバッティングセンターでアルバイトをしながら練習を続けていた山本和範(25歳)、もう1人は、西武から金銭トレードの小川史(22歳)である。2人とも実績はほとんどなく、簡単に放出されたわけだが、数年後にはレギュラーになったのだから南海は拾い物をしたことになる。ただし、阪神から移籍を打診された若菜嘉晴捕手の話を断ったのは、後知恵だが残念だった。若菜は結局退団してアメリカの3Aに入り、翌83年の途中に帰国して大洋に入団した。その後の活躍はよく知られているだけに、なんとも惜しい話ではある。が、入団4年めで伸び盛りと考えられていた香川がいたのだから、金銭的な余裕のない南海としては、断らざるを得ない話だったのだろう。
 そして、新入団選手の記者会見は12月21日に行われた。新入団は7人ということになる。

新年度を迎えて

 1983年の年が明けた。南海グループの年始会は1月5日だったが、ここで穴吹は、「前へ、上へと前進していきます」と力強く挨拶をした。マスコミにも、「儲かる野球でみんなが幸せに」というフレーズを広め、決して先を悲観していないことを示した。主力選手の自主トレは8日から始まったが、穴吹と藤原は最初からこれに立ち会い、相変わらず精力的に動いている。全選手の合同自主トレは15日から行われたが、これが2月5日からは呉でのキャンプに移行した。ちなみにこの年、ヤクルト・巨人・阪神が海外でキャンプを行い、他の球団もほとんどが沖縄や九州、高知など暖かいところで始動している(例外は静岡の大洋)。貧乏球団ゆえの呉キャンプということになろうか。
 キャンプでの出来事のうち、特筆すべきエピソードとしては、門田の一塁挑戦があげられる。79年のキャンプでアキレス腱を切断、以後DH専門になっていた門田は、82年にも1試合だけ外野の守備についたきりだった。その彼が、自らを奮い立たせるためか、チーム編成の幅を広げるためか、真剣に守備練習を始めたのである。この時期に本人は、「田淵さんよりはうまい」と語っている。この他、久保寺の三塁コンバートは順調に進展し、ベテランの山内新一、藤田両投手のハイペースで仕上るなど、明るい話もあった。しかしその一方で、抑えの切り札・金城が右足を痛めて調整が遅れ、新外国人のライトルの合流も遅延するという気がかりな出来事もあった。さらには、期待の畠山も紅白戦で打ち込まれてしまう。
 オープン戦でも負けが込んだ。3月5日の初戦には、再起をかける森口が先発したが5対9で敗戦。2試合目には、期待の李がホームランを打ち、3試合めには門田が一塁守備につくなどしたものの、結局オープン戦は4勝10敗2分に終わってしまった。いくらオープン戦とはいえ負けすぎである。この間、3月10日の鳴門でのヤクルト戦では、畠山が地元ということで先発し話題を集めた。畠山は、予定された3イニングをあと1人のところまでピシャリと押さえたが、そこから2本塁打を含む4連打を浴びてしまった。また門田も、オープン戦終盤に左足を痛め、やはりDHに専念することになった。こうして南海は、不安を抱えながら1983年のペナントレースに突入することになる。

戦力分析
 
ここで戦力についてあらためて眺めてみよう。

  1982年の打線              1983年の予定

藤原 .262−3 ─→ 河埜
河埜 .277−6 新井
新井 .315−7 門田
門田 .273−19 ライトル
タイロン .271−13 香川
岡本 .229−3 (山本雅) 山村
久保寺 .264−4 久保寺
香川 .240−8 (岩木) 定岡
定岡 .216−13 池之上
───── ────
山本雅 ,212−4 山村
岩木 .199−0
山村 .259−1 岡本
ダットサン .236−6 高柳

 打線については、全くの貧打で打率がリーグ5位、本塁打が6位だった82年よりは上昇が期待できた。なによりも、毎年40本以上の本塁打を打っていた門田が、このままでは終わらないだろうと思われたし、久保寺はオープン戦で.345の打率を残していた。定岡もオープン戦の途中まで三冠王と調子がよく、香川、岡本、高らの若手も成績の伸びが見込まれた。前年、ウエスタンで.370の打率を記録した池之上も、レギュラー定着が見込まれてた。
 守備については、名手・藤原の後は久保寺が無難にこなしていたし、不安定なタイロンに代わりライトルが入ったことはプラスの筈だった。ただ、ショートの定岡は強肩ではあったが、相変わらずエラーが多かった。また、キャッチャーは香川の出番が増えることが予想され、その分守備力は低くなると考えられた。前年、香川の盗塁阻止率は.211にすぎず、.359の岩木とは大きな差があった。足を絡めてくる阪急や近鉄との対戦では、香川では苦しいだろうと考えられていた(ちなみ82年は近鉄の梨田が.460の最も高い阻止率を残していた)。

1982年の投手陣          1983年の予定

山内孝 13−12− 0  3.04 ─→ 山内孝
山内和 11−13− 0  3.15 山内和
山内新 10−12− 0  4.50 山内新
藤田学  6− 8− 0  5.24 藤田学
井上  5− 9− 0  4.08 井上
森口  0− 2− 1  4.19 森口
高木  1− 0− 0  6.43 畠山?
竹口  0− 3− 0  4.50 竹口
山下  1− 2− 0  6.39 矢野
金城基  6− 9−21   2.65 金城基

 投手陣も向上が期待されていた。もともと82年の防御率はリーグ4位であり、決して悪いものではなかった。プロ入り3年めを迎える山内孝徳、山内和宏はさらに力を伸ばすと考えられたし、通算133勝のベテラン・山内新一も安定した成績を残すことが予想された。さらに、復活を期す藤田と森口、高卒3年めの井上にも上積みが見込まれた。むしろ不安なのは、出遅れた抑えの切り札・金城基康ではなかったか。
 ちなみに開幕前日の4月8日の読売新聞は、南海の投手力をリーグ一・二だと評している。ただ、攻・守が弱く、門田・ライトルに頼りきりだとしている。4月7日の朝日新聞でも、(投手はともかく)攻撃力が手薄だとされている。これらに対して、全てが最低ランクだと言ったのは、チームを追い出された元監督の野村克也だった。野村によると、投手力は5位(ロッテよりは上)、打撃はダントツで最下位、走塁は多少ましだが守備は他より低いというのである。野村らしい辛口である。


1983年の年棒ランキング

ライトル 4000万円
門田 3400万円
金城 2400万円
山内新 2100万円
新井 2100万円
河埜 1680万円
山内孝 1520万円
藤田 1330万円
久保寺 1290万円
定岡 1280万円
山内和 1080万円

 最後に、参考までに年棒ランキングを示しておいた。プロ野球選手の年棒は、1990年頃から急激に高騰したが、一時代前には結構つつましいものだったことがわかる。通算133勝の山内新一が2100万円というのも驚きである。ちなみにこの年、阪神の掛布は5400万円、西武の田淵は4200万円、東尾が4100万円とのことである。なお、巨人は1億2000万円で大リーガーのスミスを引っ張ってきていた。やはりこの球団だけは・・という感じである。

開幕

 開幕戦は4月9日だった。前年度最下位の南海は、いきなり前年度日本一の広岡西武と対戦することになる。南海の先発は、前年度の勝ち頭・山内孝徳、西武の先発は、安定感のある下手投げ・高橋直樹だった。試合は、門田の2連発で南海が先制し、西武がじわじわと追い上げる展開となった。4対2で迎えた7回裏、西武はテリーの3ランなどで4点を入れて逆転、8回表には抑えの切り札・森繁が登板する。南海は絶体絶命のピンチを迎えた。しかしこの回、ショート石毛のエラーでチャンスが訪れた。定岡のバントの後、河埜の2点タイムリーが生まれ、同点に追いついたのである。後は抑えのエース・金城を投入し、結局試合は6対6の引き分けとなった。負け試合を引き分けに持ち込んだのだから上々の滑り出しだと言えよう。

西

山内孝ー金城基
門田1号、2号、岡本1号

打数 安打 打点 回数 安打 自責
新井 山内孝 13
山本和 金城基
門田
ライトル
香川
岩木
久保寺
岡本
走一 池之上
定岡
河埜

 続いて第2戦、南海の先発は、井上だろうという大方の予想を裏切って藤田学、西武の先発は下手投げの本格派・松沼兄だった。この試合、オープン戦でメロメロだった藤田は6回まで零封する好投を見せ、久保寺と新井のホームランで南海が主導権を握った。藤田が疲れるとセットアッパーの井上が受け継ぎ、最後は金城が締めて南海の完勝となった。試合後、穴吹監督は、これで火曜日の大阪球場の開幕戦に人を呼べると語った。
 そして移動日を挟んで、12日(火曜日)には地元での初試合が行われた。相手はロッテ、観客は1万5000人である。しかしこの試合は、先発の山内新一がメロメロで3回までに5失点でノックアウトされた。門田の3号弾、ロングリリーフをした井上の力投も無駄になり、5対7で初黒星ということになった。それでも翌13日には山内和宏が1失点で完投勝利を収め、門田は早くも4号ホームランを
放った。ここまで4試合で2勝1敗1分、貯金1である。
 だがこの後、南海は3連敗してしまう。ロッテの技巧派左腕・水谷に1点、阪急の大エース・山田に1点、同じく若手の永本に1点に抑えられ、打撃陣の貧弱さを露呈してしまったのだ。特に永本からは、主砲・門田が死球を受けてリタイヤすることになった。早くも南海は大ピンチを迎えたわけである。
 しかし、このピンチに4番に座りチームを救ったのが香川だった。20日の日ハム戦では相手を突き放す2塁打を放ったが、ここまでの打率は.433である。21日にも2安打を放ち、1安打で完封した山内孝徳と共にお立ち台に上った。これでチームは勝率5割に復帰したことになる。
 が、この後、南海は引き分けを挟んで4連敗する。特に27日のロッテ戦は22失点というメタメタぶりである。藤田・森口・矢野が5回までに20失点・・しかも毎回失点という大敗である。翌日には2点リードの最終回に、切り札・金城が落合、リーに連続弾を浴びてサヨナラ負け・・チームのムードは最悪になった。ただでさえ戦力が劣っているところに門田がリタイヤしたのだから、最下位転落もやむを得ないということだろうか。
 4月30日の西武戦も、藤田、井上、金城が相手を1失点に食い止めていたが、味方も1点しかとれないまま試合は最終回に入っていた。西武のマウンドには、11連勝中で14連続セーブ中の森繁が立っていた。よくて引き分けという状況である。しかしここでライトル、山村のヒットと、代走岡の好走塁で南海はサヨナラ勝ちを収めた。9日ぶりの勝利、しかも圧倒的な戦力を誇る西武にここまで負け無しである。これで再び、チームの士気は回復に向かう。

4月の各チームの順位は以下の通り

勝率
西武 16 10 .667
ロッテ 14 .667
阪急 16 .500
日ハム 14 .429
南海 15 .385 0.5
近鉄 15 .333 0.5

 優勝候補の西武の強さは予想された通りだったが、最下位候補だったロッテが意外に善戦していた。新加入の左腕・シャーリーが抑えの切り札として定着したのが大きかった。対して、西武の対抗馬とされた阪急・日ハムは苦戦していた。阪急は投打が噛み合わず、日ハムは江夏を投入できる展開になかなか持ち込めなかった。近鉄もエースの鈴木啓以外は投手陣が壊滅状態だった。

この月の南海の投手成績は以下の通り

勝敗S
山内孝 25 21 1−1−0
山内和 20 2/3 22 2−0−0
山内新 10 1/3 21 13 0−3−0
藤田学 25 2/3 29 15 1−2−0
森口 0−0−0
大坪 9 1/3 0−0−0
矢野 0−0−0
井上 22 24 0−1−0
金城基 9 1/3 1−1−1

 上の4人でローテーションをまわしていたわけだが、山内孝、山内和が安定していたのに対し、山内新の不振が目立った。年齢的に力が落ちたということだろうか。また、復活を期す藤田学は好不調の波が激しかった。セットアッパーの井上も1試合にだけ先発したが、これは負け試合となった。ストッパーの金城は、ロッテ戦で逆転されるなどで数字は残せなかったが、同点のまま引き分けに持ち込んだ試合も2つあり、数字以上の活躍をしたことになる。なお、若手では大坪が敗戦処理での登板ばかりだったが、1点台の防御率を残した。

それから、南海の打者で目立ったのは、なんといっても香川である。この月.455の成績で月間MVPになった。また門田も開幕から6試合で5本塁打を放ったが、この試合で負傷、以後欠場が続いたのは惜しまれる。

5月ー善戦続く

 5月1日の西武戦は大阪球場で行われた。先発の山内孝が1点を失った直後、南海は香川の2ランで逆転した。最後は金城が締めて7対4での勝利、これで西武には負けなしの3勝1分である。さらに3日の近鉄戦も9対8で逃げ切り、南海は4位に浮上する。この試合で門田が代打で復帰したのも明るい話題だった。
 この後、4日5日と連敗したが、7日からは4連勝してチームは3位に浮上した。井上と山内和の連続完封があったり、江夏を打ち崩しての逆転勝ちがあったりと、投打の歯車が噛み合うようになったのだ。そして5月11日の試合が終わった時点で、南海は貯金1であり、首位西武には3ゲーム差に迫っていた。
 しかし、12日の日ハム戦では、先発した山内新がまたもや序盤でのKOを食らってしまう。これで5試合連続のKO、勝ち星なしの4連敗である。ここに至って穴吹監督も山内新に見切りをつけ、17日には2年めの矢野を先発させた。矢野は7回まで自責点1に抑えたが、エラーや落球が続いて敗戦、これでチームは4連敗となった。この試合で門田は鈴木啓から1500安打を本塁打で飾ったが、勝ちには繋がらなかったわけである。さらに翌18日にも、金城が打たれて逆転負け、借金は4にまで膨らんでしまった。
 例年ならばこのままズルズルと行ってしまうところだが、この年の南海には反発力があった。19日の近鉄戦では山内孝が2失点で完投勝ちし、21日には負けたが22日からは3連勝した。この時期、西武が圧倒的強さを発揮して独走ペースに入りつつあったが、南海は山内和、山内孝をぶつけて連勝し、5勝1敗1分とこれを圧倒したのである。特に23日の試合は、またもや絶対的なストッパー・森繁を打ち崩しての勝利だった。その結果、24日には南海は借金1ながら2位に浮上する。これは、西武が強すぎるため、残る5球団全てが借金を背負うという異常な状況下での出来事ではあった。が、それでも、最下位に予想されていたチームが2位になったのだから、特筆できる出来事だったと言える。
 26日の日ハム戦を落とした南海は、翌27日から西武との首位攻防3連戦に臨む。ゲーム差は大きかったが、首位攻防という景気のよい掛け声に、金曜日の第1戦には1万9000人が集まった。ここまでで大阪球場が集めた最多動員である。この試合、先発の山内和は見事に西武を1点に抑え、打では門田の満塁弾が飛び出すなど南海の完勝となった。スコアは9対1である。さらに翌土曜日には1万7000人が集まったが、この日は山内孝が打ち込まれて3対9での敗戦となった。
 29日の日曜日には、なんと3万人が集まった。1980年5月4日以来、3年ぶりの大入りである。この試合は、3回まで両軍共に得点を重ねる熱戦となったが、満員の観客に緊張したのか南海にエラーが相次いだ。その結果、5対9で敗れることになった。これで南海は4位に転落したが、31日のロッテ戦には藤田が久々に好投して勝ち、この時点で借金は2となった。

5月終了時点の順位は次の通り

勝率
西武 41 28 12 .700
阪急 40 19 19 .500
日ハム 37 18 19 .486 0.5
南海 38 17 19 .472 0.5
近鉄 38 14 20 .412
ロッテ 38 14 21 .400 0.5

 この月、西武が18勝7敗と圧倒的強さを見せて独走状態になった。月刊本塁打51本という新記録までつくった打線(田淵13本、テリー12本、スティーブ6本、片平5本、大田4本など)に、東尾・松沼兄弟・高橋直・杉本・森繁という豪華な投手陣が揃っているのだから、他のチームがかなうはずもなかった。その西武がこの月に喫した黒星7つのうち、4つまでが南海戦でのものだったことには注目すべきだろう。2位の阪急、3位の日ハムはようやく地力を出してきた感じである。逆にロッテは、この月6勝17敗1分と泥沼にはまった。エース・村田兆治がリハビリのため不在の上、大洋に放出したレオンの分攻撃力も弱まっていたのだから、仕方がないと言うべきだろうか。

この月の南海投手陣の成績は以下の通り

勝敗S 勝敗S 防御率
山内孝 51 53 25 4−2−0   5−3−0 4.03
山内和 38 2/3 41 14 3−1−0 5−1−0 3.03
山内新 6 1/3 14 0−1−0 0−4−0 11・34
藤田学 22 2/3 31 16 1−3−0 10 2−5−0 5.77
森口 2 2/3 0−0−0 0−0−0 10.80
大坪 8 2/3 12 0−0−0 0−0−0 3.75
矢野 27 2/3 24 10 1−2−1 1−2−1 4.26
井上 29 30 20 3−1−0 12 3−2−0 5.12
金城基 13 1/3 12 0−1−4 12 1−2−5 5.16

 なんと言っても、山内孝、山内和の2人が大黒柱となっていたことがわかる。2人とも交代しないで投げ続けることが多く、防御率はあがらなかったが、安定感は随一のものがあった。ただ、山内新はKO続きでローテーションを外れ、藤田学も大量失点の試合が多くなった。その分の負担は井上にかかり、先発に救援にと酷使されることになった。そのためか5月半ば以降打ち込まれるケースが増え、3.12だった防御率も5点台まで下降していた。

一方、5月25日現在の打線の状態は以下の通り

試合 打数 打率
新井 33 113 .221
池之上 31 92 .304
ライトル 33 125 .216
門田 28 69 .246
香川 32 114 .342
山村 24 74 .311
久保寺 31 110 .282
定岡 33 112 .277
河埜 30 98 .255
岡本 26 49 .286
山本和 21 45 .244

 打者では、香川は相変わらず好調で、5月を終わった段階で.360で依然首位打者だった。また打撃ベストテンの7位には
.308で久保寺が入っていた。池之上も規定打席に達し、一時はベストテンの4位にまであがっていた。このように力を発揮した若手もいたのだが、長打については相変わらず乏しい状態が続いていた。この月西武は51本を打ったが、南海は25本にとどまった。門田が5本、定岡が4本、池之上、久保寺、ライトルが3本ずつである。特に、期待されたライトルの不調が大きかった。



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