山城見聞禄

中世の山城の話です

ほとんど無名の山城をハイキング気分で登ります

映像がないのでごめんなさい

1 鏡山 2 槌山 3 武田山 4 土岐の城山
5 郡山 6 月山冨田城 7 高松山 8 五龍城
9 猿掛山城 10 新高山 11 発喜山 12  神辺城

1 鏡山城址

広島県東広島市

広島大学キャンパスから西条駅に向かうブールバールの途中に鏡山城址公園があります。

西条盆地は古く飛鳥時代から交通の要衝、安芸の国の中心でありました。当然この地を押さえる事は重要でした。

中世には出雲の尼子氏や周防の大内氏が勢力を拡大し、この地で争っています。

鏡山城は大内氏が築城したもので、尼子方についた毛利元就が得意の策略で攻め落としています。

麓から見た感じではどうって事のない山で、簡単に落とせそうな印象を持ちますが、いざ登ってみると以外に本丸二の丸は険しく、なるほどと思わされます。

二の丸の周りには大小の曲輪があり山城としてはしっかりした規模です。空堀もはっきり認められ井戸の跡がわかります。

登ったのは2家族大人3人、年少から5年生までのこども5人。お弁当を持って頂上で食べるつもりでしたが、あいにく小雨が降っていたので麓の公園で食べました。

前もって調べていたので年少の子供でも上れる事がわかっていました。お弁当を食べ終わると雨もやみ、明るくなったので登山決行。また降り始めたら引き返すつもりでゆっくりと登り始めました.登山道がきれいに整備されているのでぬかるみもなく、階段状の道を子供達は競って走り出しました.

約30分いったん尾根筋に出て空掘跡を越えると頂上。

本丸周辺はかなり急峻で眺めも良く、30分ほど休憩して景色を堪能しました。子供達は景色など値打がなく、どんぐり拾いに夢中です。

下山はきた道とは違う尾根筋の迂回路を下りました。こちらも幅も広くきれいな階段状に整備されているので。マムシなどの心配もありません。

公園に戻ったときには足が笑い、結構疲れました.子供達は物足りないようでした.

私はカメラやメモ帳を持っていかないので、記憶に任せて書いています.

詳しい歴史や学術的な城郭の様子など興味があれば調べてみてください。(無責任?)

どうせまた登りますからその時にはここを更新します。


2 武田山(銀山城跡)

広島市安佐南区

ふもとの辺りに仕事に行って、ちょっと時間が余ったので登山口まで行ってみる気になりました。

安芸の国の守護、武田氏が築いたもので、武田氏は元祖広島県知事ですな。あの武田信玄の先祖になるそうな。

当時は瀬戸内海がもう少し近く、大田川と山陽道が通る交通の要衝でした。

祇園辺りは政治経済の中心地で、それを眼下に見るこの山は山城を作るためにあるようなものですね.

武田氏は16世紀には尼子方についたので、大内氏からたびたび攻撃されました。安芸地方には大内方の国人が多かったのでたまりません。

鏡山城とは逆に大内方に寝返った(表現が悪いかも)毛利元就が、最終的には武田氏を滅ぼしました。

さすが毛利元就。

わたしは南下安のバス停から北西に入り、武田山憩いの森と言う公園を目指しました。谷を整備して小さな公園になっています。

そこまで車で行き公園に駐車。少し登ると登山道の看板があります。

ちょうどその日、その辺りでせりを栽培している地元のおじさんが作業していました。

この山登ったらどのくらいかかりますか?

うーん40分ぐらいかねえ。

登る人いますか?

正月にはわしらあ登るんじゃがねえ。

ハミ(まむし)いませんか?

いまごらイノシシがようけ居るけ、みんようになったのお。

ええ?イノシシがハミを食べるんですか?

そうらしいねえ。毒もイノシシにゃあ利かんノンじゃと。

へえええ、イノシシがねえ。まあ、登ってみますわ。ありがとう。

てなわけで登る事になってしまいました。

それにしてもイノシシがマムシを食べるとは以外です.

登り始めは緩やかなんですが、だんだんと急になりおまけに狭い。とても小さなこどもには無理です.

登山道は侵食で溝のようになり、アップダウンが激しく回りの草木がまるでマツロ国(居酒屋卑弥呼参照)です。

この道を馬があがったなんて信じられませんな.

汗だくになって30分。御門跡到着。この岩がごろごろしている所は県の史跡に指定されていて、学識的に重要な遺物だそうだ。知らなければただの岩である.

そこから約10分上ると頂上。この辺りから郭が確認され始め、頂上の下に本丸の広い平坦な千畳敷をはじめ、大小沢山の郭で構成されています。

頂上は巨大な岩が乗っかっていて、なにかに利用したのかなあと考えさせられます.

頂上からさらに尾根筋に郭群。これは時間をかけて歩かないと確認しきれません.

眺めは最高。少しガスっていたので、広島市街は見えませんでしたが、おそらく天気のよい日には瀬戸内海やその島々まで見えるのかもしれません。

仕事中でもあり、小雨が降ってきたので5分ほどいただけで引き返しました。

途中すれ違う人がいました。やっぱり変な人はいるもんだなあと感心しました.

往復約1時間半、下山のほうが足に来ます。

もともとスキーのオフトレのつもりで始めたのですが、なかなか気分爽快でお奨めですよ。

ただ、まむしとスズメバチにはくれぐれも注意してください。(熊はいないと信じていますが)

倒木にはスズメバチの巣があることがあるので踏んだり触ったり棒でたたいたりしないように。

また、登山道以外の場所に出るときは、慎重に足元を確認してください.

小さい子供を連れていくときは、前もって下調べをするか、登山道の入り口が整備してあるかどうかで判断し、登り始めて厳しいようだったら、迷わず引き返して遊園地かなんかで機嫌をとりましょう.

一人での登山はなるべくしないほうが良いです。なにかあったとき山では携帯電話は通じません。

登山の格好をしていないときは、特に秋にはマツタケ泥棒と間違えられます。秋以外でも変な人に見られるので、出会った人には必ず声をかけて、自分が正常な市民である事を伝えましょう。

少し肌寒い日でも汗をかきます。できればタオルと飲み物は持参し、煙草を吸う人は携帯灰皿、ごみ袋、ガイドブックなどあればいいですね。御門跡なんか標識を見落とせば感動しません。

それから時間の計算をしましょう。余裕がないと事故の元です。

私の経験からのワンポイントアドバイスでした。

銀山城。こんどはゆっくりお弁当持って登ってみたいですね。

追伸・憩いの森のちょっとしたの畑の中に、武田氏のお墓があります。


3 槌山

東広島市

これは大内ゆかりの山城です。

毛利元就は尼子方で鏡山城を落とし、大内方で銀山城を落としました。

こんどは力をつけた元就が、大内氏に牙をむきます。

陶隆房が反旗を翻し、大内義隆を自害させ、元就をとりこもうとしましたが、元就がそっけなかったので隆房改め晴賢は元就に敵意を持ちます。

厳島合戦まで毛利と大内の食うか食われるかの時代に入ります。

大内方の東西条司令官の菅田某が、毛利からこの地を守るためにより堅固な城を築く必要に迫られ、この槌山を選んだのです.

しかし毛利の両川に囲まれ、善戦むなしく落ちてしまいました。ここに大内の支配が安芸国から払拭されたのでした。

山城としては大きい山を選んだものです。

独立山ではありますが西方の尾根伝いに山がつながり、防御に適しているのか不思議です。

吉川から広島市阿戸町に抜ける途中、念仏の森(?)の公園があります。

その池のほとりに登山口があります。説明の看板があるのでわかると思います。そういえば大河ドラマで元就を放映しているときには幟が立っていたなあ。

その割に、ドラマにこの山は出てこなかった。重要なポイントだと思うんだけど。

ちょうど安芸地方が6月の豪雨で大災害に見まわれた1週間後だったので、登山道はかなり荒れていました。

道だか川だか判らないところもかなりあります.

登ったのは日曜日。退屈だったのでペットボトルに水を入れ、ジャージ姿にリュックを担いでフラットでかけました。

ジャージで登山しては行けません。

道端の小枝が引っかかって登りにくい登りにくい。

一般の人はほとんど登る事がないのでしょうまったくの山道です。これもマツロ国。

登っていくうち心細くなったものでした.

勾配はそれほど急ではありませんが、長い道のりでけものみちですから途中何度も休みました。

谷沿いを登ると尾根に出ます。

左手に別の山が大きく迫り、正面にこれこそ山城かと思わせる台形の岩山が見えます.なぜここを選ばなかったのだろう。

東に向かい尾根を登り、40分ぐらいで頂上です。

まったく普通の山で人の手が入っていないので、頂上には大きな松ノ木が茂っています.ですから眺めはまったく良くありません。

木の間からわずかに見える下界はさすがに爽快ですね。

頂上には案内もベンチも何もありません。

しかし本丸跡らしい平らな部分があり、1段下がって郭跡も確認できます。

そのほかに石垣跡や井戸の跡を探したんですが、見つかりませんでした。

本丸跡はそれほど険しいわけでもなく、すごい山だなあという印象はありません。大きいだけで多勢にブゼイなら簡単に落とせるような感じです。

毛利の両川でなくとも、落ちるべくして落ちたと言えるんではないかな。激しい攻防が繰り広げられたということですが、菅田某も背水の陣だったでしょうから相当抵抗はしたようです。

こんな身近な普通の山でも、沢山ドラマが詰まっていると思うと、感慨深いですね。約450年前のはなしです。

どんなに小さな山でも危険はいっぱい潜んでいます。

登った道を下山するのが鉄則です。

私はその鉄則を無視して、南に下る道を選びました。先程上った道がつまんなかったからです。

谷筋の道でまっすぐ下るのでかなり急勾配、しかも湿っていてよく滑りました。

状況から見て、こちらが大手道だったように思われます。

山城はほとんどの場合、正面玄関の大手と裏口の搦手(からめて)があります。

近世の城には必ず大手門があり、現在も地名に残っているところをよく見かけますね。

いくつかの郭らしい平坦なところを見ながらもくもくと下山し、麓にある林道に出ます。この間30分。

ここから車を置いた登山口まで10分程度。そのまま帰りました。

もう少し調べたらもっと興味深い山だろうなあと思います。今後菅田某についても調べてみたいと思います。

この山は子供は連れていかないほうが良いでしょう。もう山はいやだと駄々をこねるでしょうから。


4 土岐ノ城山(とぎのじょう)(とんぎんじょう)

安芸群熊野町

熊野町のほぼ中央にある独立山です。

この山城は歴史背景がわかりません。中世後半の毛利氏全盛のころには縁がなかったようです。

おそらく鎌倉期前半の関東武者の移封で、この地に安堵され、その時にこの山に城を築いたものでしょう。

そのころの熊野町の状況はよくわかっていません。その後、中野の阿曽沼氏の影響下になったり、矢野の野間氏が治めたり、槌山の菅田某(越中)の関係者であろう菅田豊後が監督したり、めまぐるしい変遷をたどっています。

熊野町の伝説に、この山城と北対する城山(じょうやま)で戦争があり、弓を射て中間にその矢が落ちた、その地が落矢というとあります。

土岐の城山と城山は数キロ離れているので、現実にはありえませんが戦が合ったことは事実でしょう。

そうだとすると、城山が菅田豊後の居城であったので敵は阿曽沼、となれば当時土岐の城山の城主は阿曽沼氏だった可能性が高いですね。

あるいは、土岐の城山を砦とした菅田豊後が、この戦いで勝って、阿曽沼の城山を奪い居城としたとも考えられます。

阿曽沼氏は大内氏の菅田豊後に追い出されたので、大内氏は槌山と同様、毛利氏に征服されるまでこの地を治めただろうと思われます。

さて、今回はファミリー登山。

下調べはしなかったのですが、小学校の遠足に行くぐらいですから、子供でも大丈夫だろうと計画。

実は私は子供のころ登った事があります。まったく記憶にありませんが。

標高400メートル強。比高約200メートルの小さな山で、麓から頂上に立てられたポールが見えます。

私、嫁さん、ミセスK、小5、小3、小2、年中、年少、の8人でとある日曜日11時ごろに登り始めました。

ところでスキーでよく登場するミセスKですが、なぜかその旦那の話がありませんね。

ミセスKの旦那はわがままでアウトドアが大嫌いなんです。それでいつも私が面倒を見てるんです。小2、年中は彼女の子供です。(父親は私ではありません)

土岐の城ハイツと言う団地の一番上に、登山口があります。

ちょうど登り始めたとき、下山してくる老夫婦と出会い、安心したものです.

登山道は整備してあるわけではありませんが、比較的登山者が多いらしく、荒れてはいません。

子供達は先を競って上り、大人3人がふうふう言いながら跡を追います。中腹まではそれほど急ではなく、足元もしっかりしていますが、頂上に近くなるほど険しくなり、岩の階段状になります。

どの山でもそうですが頂上付近は急峻です。

30分ほどで頂上。広くなったところに小さな祠があります。ここが二の丸(二の段)跡。わずかに石垣が残っていますが、後世のものかもしれません。

本丸周辺にはニの段、三の段と郭で囲まれ、さらにその下にも郭らしい跡が見えます。

二の丸から2,3メートル上がって頂上の本丸跡。眺めは最高です。

ほとんど熊野全体が見えます。天気もよかったので子供達もしばらく景観を楽しんでいました。

一段落したらお弁当ですね。なぜかおいしいんです。なにも残らずあっという間に全部平らげました。

私は大事に持参した缶ビールをおいしそうに飲みます。少々ぬるくても大丈夫。もちろん空き缶は持って帰ります。

食事の後、お絵描きなんて理想の風景ですね。

わらびがあったから初夏だったと思います。嫁さんはわらびとりに夢中です。風景を見いや。

うちのくそがきは熊ン蜂に襲われ、必死の形相。お父さんは避難して無事でした。

1時間ほど休んで、下山開始。

弁当が軽くなった分だけ楽です。

元来た道を降りて、帰宅しました。

登山口には駐車場はありませんので、工夫してください。

天気の悪い日に登るのはやめましょう。ちっとも面白くありません。


5 郡山

高田郡吉田町

言わずと知れた毛利一族の居城です。

元就の代までは、一部の尾根の先端が本丸だったそうですが、元就の時代になって山全体を要塞として整備したようです。

毛利元就に関しては私がとやかく言わないまでも、ご存知の方は大勢いらっしゃると思いますので略します。

私は元就にかかわったほかの武将にむしろ興味があります。

広島県民としては、重要な先輩で、なにを語るにも無視する事は出来ません。

しかしだからこそあえて元就を語らずとも、自然に登場してきます。今までの山は全部そうです。

私がこの時代に興味があるのは、現代の、もっと言えばいまの感覚に非常に近く、結果が全ての生き様が自分に刺激を与えるからです。

元就を卑怯と見るか、ずるいとみるか、ラッキーとみるか、上手とみるか、強いとみるか、英雄と見るか、これは人それぞれでいいでしょう。

しかし、結果を残し、明治に天下を取っています。ルーツはすべて郡山にあります。

さてさて、この間猿掛城に登りました。元就ご幼少のころの居城です。詳しくは改めてお話しますが、この城も元は麓の小さな丘が本丸だったようです。

毛利氏が急成長した証がこんなところにもみうけられます。

吉田町歴史民族資料館の右手の道から登山道は始まります。車は10台分くらい置けます。

琴引にスキーに行き、人が多かったので9時過ぎにはやめて帰りました。

このまま帰るにはもったいないと、いろいろ考えて思い付いたのがこの山です。

大河ドラマのブームは過ぎていましたから、もう行っても大丈夫かなと前前からチャンスをうかがっていました。

登山口から石畳を歩いていくと、左手に広くお寺の跡。その先に毛利隆元、元就の墓があります。

墓石はなく、大きな枯れたご神木です。その他一族の墓もありました。

そこに休憩所があり、そこからは尾根筋の山道。大きな山ですから、距離はだいぶありますね.

あまり険しくない道を進めば、他の登山客がかなりいることがわかります。さすがは郡山。メジャーです。

尾根筋には特に左(北)がわに、2,3メートル幅の平らな部分があちこちにあります。自然のままではないようで、どうやら畑か下級武士の家か馬場か何かだったような気がします。

最初に釣井の段だったか広い郭が広がります。井戸の跡があり生活の場だったのでしょう。

続いて三の丸、その内側に二の丸、中央に本丸跡があります。二の丸から4〜5メートルも高く、石垣で堅固に築かれていた事がわかります。

江戸期に壊されたのでしょうごろごろと直径30〜60センチの石が転がっています。

二の丸三の丸も同様です。わずかに石垣跡も残っています。

本丸を南に数々の郭を見ながら下ると、左手に尾崎丸跡の立て札があります。

その立て札から左の尾根筋を下っていくと段々と郭が続き、大きな空掘り跡になります。そこから急激に登って広い場所、尾崎丸です。

これが旧本丸。いま登って来た空掘りは元就が家督を取る際、弟元綱についた桂広澄を突き落とした崖だということです。あ〜〜こわ。

元の道に引き返して下山すると、松坂恵子ふんするお杉(ピーコじゃないよ)が奉られているという清神社があるそうなんですが、行きませんでした。

清神社はサンフレッチェが必勝祈願するところですね。御利益ないのかな。

約2時間、ゆっくり散策すれば丸一日楽しめる山です。歴史民族資料館にも行って見ると良いですよ。

小学生くらいだったら飽きないと思います。

吉田には他にも沢山山城跡があります。桂さんの山、福原さんの山、尼子さんが陣取った山など、そこら中遺跡だらけです。

何年かかるかわかりませんが当分吉田に通う事になるでしょう。


6 月山冨田城

島根県広瀬町

郡山の話を出したので、こちらもお話しなければなりません。がっさんとだじょうと言います。

もちろん大内氏と並ぶ中国地方の雄で、毛利氏と深い関わりを持った尼子氏の居城です。

玉造温泉に出張に行った(観光では決してありません)帰り時間があったので、カメラに興味のある同業者の方に無理を行って一緒に登りました。

スーツ姿で革靴。こんな登山は最初で最後でしょう。

ドラマのブームで頂上まで楽に登れる事を知っていましたが、なにせ難攻不落の山城ですからやっぱり間違っています。

ほとぼりが冷めたころでしたので、日曜日にもかかわらずほとんど登山者はいません。

麓には資料館があり、駐車場も広く山全体が公園のように整備されています。

まず、大手口から登り、少しそれて左に広い見晴らしの良い高台に出ます。恐らくここは城を打って出る最前線でしょう。

そのままなだらかな丘を歩いていくと、さらに広い場所に出ます。その奥まったところに三日月を前立てに鹿の角を両脇に据えた兜の山中鹿之助が何かを見つめて立っています。

その丘伝いにゆっくり登ると、復元された当時の建物があり、業務上しばし見入りました。

大手道はその下の谷に沿ってありました。その谷が行き付くところに尼子氏のお屋敷跡があります。

石垣もきれいに残っています。江戸期の堀尾氏の改修があったかもしれません。

郡山と比べると数段立派な構えです。

平時にはここが生活の場で中心だったのでしょう。北側には搦め手門があり、新宮地区に続いているようです。

尼子氏についての詳細は別の機会にお話出来ればと思っています。

問題はここからです。

この山は遠くから見ても急峻な独立山で、広瀬川が天然の堀になり、私はこれまで見た中で最もスリリングな山です。

大内義隆が郡山での勝利に気をよくし、毛利元就らを連れて多勢で攻め立てても落ちなかったり、大内氏を滅ぼして一大勢力になった毛利元就が落とそうとした時、長期の兵糧攻めを選択させたりしたすごい山なんです。

それほど険しい山はここから始まります。

登山道は整備されています。屋敷跡から小さな谷沿いにうねうねと道は続きます。

晩秋の肌寒い日でしたがすぐに汗ばんできます。

途中には郭の跡などありません。ただただ登ります。傾斜は次第に急になり、馬は登れないだろうなあ等と感じ入ります。

登りきって頂上をスパッと切落としたように平らな3の丸が広がります。周囲に大木が少なく眺めは見事。

空掘りのような跡があって2の丸、休憩できるようにベンチや屋根もあります。

その先に細長い本丸跡、神社がありましたね。

とにかくすごい。周囲はどこも断崖絶壁で、遠く日本海も見えます。鎌倉初期からの山城で代々改修がなされているんでしょう。石垣なども見うけられます。

ここは絶対お奨めです。行って見て感動しない人はいないでしょう。

子供でも登れますし頂上に何時間いても飽きません。(子供は飽きるか)

下山したときは足はがくがくで、まともに歩けない状態でした。

さすがに尼子の城。あまり言葉になりません。


高松山

広島市安佐北区

可部の町ならどこからでも見えるいかにも急峻な独立山です。

毛利一族が萩に左遷されるまで、その家臣熊谷氏の居城でした。

熊谷氏は、かの熊谷次郎直実の流れを汲む関東武者で、鎌倉期にこの地にやってきた国人です。

まあ熊谷氏に限らず、ほとんどの国人が関東出身だったようですね。

もともとこの山城は、二階堂某の居城だったそうですが、熊谷直時のときにここを落とし、取って変わったそうです。

熊谷氏は始め、守護である尼子方の武田氏についていましたが、次第に仲が悪くなり、熊谷信直が毛利元春の舅になった辺りから毛利氏に従いました。

武田軍がこの城を落とそうとしましたが、よく耐え、追い払ってしまいました。あとは毛利氏の威厳もあり、武田氏に脅かされることはなかったようです。

ここも仕事の途中、時間があったので作業服姿で登りました。

可部高校グランドそばに登山口はあります。そこから墓地を過ぎて鳥居や灯篭があり、お祭りの幟が立っていました。

始めは谷沿いの広い道です。当時のものかどうかわかりませんが右手にいくつも段があり、石垣もしっかり残っています。

麓の詰め所かもしれません。

そのまま登っていくと石がごろごろ大量に転がっている場所があります。がけ崩れではないようです。

攻めてくる武田氏に石を落としたのかな。

谷を超えて道は急になり、足元は滑りやすくなります。

少し登ると祠のある三の丸に出ます。ここから右手に進むと馬場、そして井戸跡がある郭があります。

ちょうど本丸の下に当たり、本丸を浮き立たせて断崖を作っています。

元に戻って尾根筋を登ると空掘り跡、さらに登って二の丸です。結構広いようですが、草木生い茂り入れません。

最後に急激に登ってところが本丸跡、頂上です。眺めは良いです。案内の看板が立っています。

本丸をさらに進むと10メートル四方のこんもり盛り上がったところがあります。これは明らかに何かの建物跡でしょう。

昔、頂上に神社があったということですから、それかもしれません。あるいは、山城のやぐらでは?と、勝手に考えると楽しくなります。

その奥に奇妙な場所があります。

同じレベルで鐘の段と言う郭があるんですが、本丸との間に幅10メートルぐらい、深さ三メートルぐらいの空掘りのような平地があります。

空掘りを後世で埋めたものか、自然の地形に従った単なる低い郭か、あまりお目にかかった事がありません。

そこから搦め手の道があるので、単なる郭だった可能性が高いのですが。

この山城には石垣が沢山残っています。この空掘りのような郭にも本丸がわにずらりと並んでいますし、本丸東側にも長く石垣が認められました。

頂上付近には、それ以外の郭が尾根筋にあるようです。

この山城も、しっかり残っていてその見事な構えは私の中で指折りです。

子供連れでも楽しめる所です。片道およそ45分。お弁当持ってまた行きたいと思います。


五龍城

高田郡甲田町

本村川と可愛川の合流地点、一筋の尾根の先端に五龍城があります。宍戸氏が開いた要害で、川は天然の堀の役目をしています。

宍戸氏は常陸の国から移封された国人で、郡山に近いことで長く毛利氏と敵対していました。

毛利氏も何度かこの城を攻めますが、一度も落としたことはありませんでした。

毛利氏にしてみれば、目の上のたんこぶで、攻めても落ちない。元就はとうとう和睦の道を選びます。

娘を宍戸隆家に嫁がせて、北東の恐怖は一気に強力な守備前線となったのでした。

毛利氏と一緒に萩に移るまでの重要な山城だったわけです。

54号線を何度か通ってこの山を探していたのですが、どうも見つかりません。それもそのはず。

左右ばかり見て正面に気が付かなかったのです。なんとこの山城のど真ん中を54号線が通っています。

宍戸元源がいたら、真っ赤になって怒って城を打って出たでしょう。(んなあほな)

高宮のゴルフ場へ行く途中、一時間ほど時間があったので、鳥居の下に車を置いて下から眺めます。

ちょうど掃除をしていたおじいさんがいましたので、ちょっと聞いてみます。

ここから登れるんですか?

そうです。裏にも入り口があります。

登ってもかまいませんか?

ああどうぞどうぞ、ちょっときついけど一番上まで登って見てください。

ゴルフに遅れるわけには行かないので、時間を見ながらゆっくり登り始めました。

可愛川を渡る橋の付け根に大きな鳥居があり、石垣の急な階段を右手に可愛川を見ながら登ります。

すぐに広い段に出ます。そこには宍戸神社。普段から地元の人がよく訪れるのでしょう。きれいに整備してあります。

わずか20メートルぐらい登っただけでここは周囲の町並みが見事に見渡せます。あまり広いとは言えませんが今では神社の境内になっています。

神社の横から細い道を登ると右に絶壁。下を覗くとなんと国道54号線。この真下にトンネルがあるんです。

左も急斜面。元は空掘だったのかもしれませんね。その尾根を進んだところに尾崎丸という出丸があります。郡山にも尾崎丸がありますが、尾根の先という意味なんでしょうかね。

ここから段々にいくつもの郭が続きます。尾根全体が郭なんです。そして左右はどちらも絶壁。

小さいながら見事な縄張りです。

本丸まで約15分程度。攻撃してくる相手がいなければすぐに着いてしまいます。

そして本丸の裏手、尾根をズドーンと切り取ったすごい空掘。高所恐怖症の私はちぢみ上がってしまいました。

この当たりの山城の縄張りの特徴でしょうか。あるいは尾根の先の山城だからでしょうか、本丸を二の丸が囲む形ではなく、三の丸、二の丸、本丸と段々に登り、本丸の裏手が90度に近い絶壁の大きな空掘になっているところが多いようです。

小さくても山全体が要塞で、しかも周囲が絶壁。おまけに二本の川が守る不落の名城だと言えます。

こんな尾根のてっぺんでも井戸を掘ると水が出たんだそうで、それで宍戸氏はもと居た城からこちらに移って元木山改め五龍と名付けたんだそうです。

また話が飛びますが、井戸と言うものは谷ではなく尾根に掘ると水が出るんだそうですね。

何だか反対のような気がしますが。

水みちは高い低い関係ないそうで、表面が侵食された尾根のほうが水みちに近く、谷は堆積物が厚く積もり、深く掘る確率が高いとか。また谷から水が出ても水質が悪いのだそうです。

だから山城のように山のてっぺんでも井戸を掘れば充分水が出てくるのです。最近知りました。

ここにも井戸の跡があります。本丸には石垣跡もはっきりあります。

先ほどのおじいさんたちがいつも手入れをしているのでしょう。整然と下草が刈られていました。

比高は50メートルぐらいでしょうか。足はまったく疲れません。ゆっくりと往復して30分程度。まさに遺跡です。

ただ、山が小さいので兵糧攻めを食らったら、一年は持たないでしょうね。

まあ毛利対宍戸のころは石ころの投げあいみたいなもんですから、兵糧攻めなんか考えもしなかったでしょう。

当時は一回の城攻めで二,三人の死者しか出なかったようです。

怪我人も、石や大木による打撲が多く、続いて矢傷、槍傷だとか。もちろん鉄砲はありません。刀傷もほとんどなかったようですね。

刀は接近戦でとどめを打つときか首をとるときぐらいに使ったのでしょう。チャンバラはあまりなかったということでしょうね。

戦の形態はこの後、戦国時代に入って大規模となり、戦略も大きく変わっていくようです。

ハイキングにはちょっと物足りないでしょうが、何かのついでにちょっと普段着で寄ってみてはいかがでしょうか。

私はゴルフウエアでした。

このあとリージャスクレストのロイヤルで楽しみました。良いウオーミングアップでした。スコアは別の話です。


猿掛山城

高田郡吉田町

さて、五龍城に登ったその日、ゴルフが終わってくたびれているにもかかわらず、帰るのがもったいないと吉田町に向かいました。

郡山の城下町を西に進んで、相合の谷を右手に過ぎ、しばらくすると左手に小高い尾根が見えてきます。

これが猿掛山で、のどかな田園に囲まれた千代田町に抜ける街道沿いの山城です。

上に登るとわかるのですが、街道がよく見渡せて、遠く郡山も見えます。

郡山を守る西の要衝と言った所です。

この城の古いいわれは勉強不足ですが、元就の時代よりさらに古くからあったようで、当主の近親の者が代々出城として居城したものと思われます。

元就の父親弘元は”酒害”で若くして亡くなっています。兄の興元も同じように死んでいます。

これはアルコール中毒の事か、肝硬変の事かよくわかりませんが、身につまされます。

興元を当主に立てて隠居した弘元が、幼い元就を連れて入ったのがこの城です。

ですから元就が居たのはわずか14,5年程度でしょうね。当時毛利と言っても、吉田の庄の一国人に過ぎませんから、殿様の弟とは言っても中小企業の小せがれ程度でしょう。育ちが良いとは言えません。

さらに、このころは戦国時代前期で身分の差がそれ程なかったでしょうから、近所の子供たちとわるさをしまくっていたんじゃないかなあと思いたいものです。

そうそう、山のこと。

千代田街道から山に向かってきれいな道の突き当たりに、大きな案内板と石の標識があるのですぐにわかります。

そこから右手の舗装された道路を歩き左に折れると駐車場があって、そこから歩きます。

そこの右手に大江(毛利)弘元と元就のお母さんの墓がありました。

その先のお寺の入り口の右手に登山口があります。

ブームの名残で案内板や手すりなどが、寂しそうに立っています。

登り始めると、寺屋敷後という段の連続したところに出ます。その名の通り沢山お寺があったそうです。

そこから上には郭らしい段は見つけられませんでした。ただ急斜面を登ります。

道は整備されていない山道です。ただ大きな樹が多いせいか下草があまり生えていないので登りにくくはありません。

二の丸も三の丸も確認できずに広く平らな頂上に着きました。ここが本丸なのでしょうか。

周囲に大木が茂っているので景色はよく見えませんが、街道や田園、多治比川、郡山などポイントはよく見渡せます。

北西に伸びた尾根の先端ですから南は山。こちらに五龍城と同じように深く切り立った空掘りがあります。なぜかごみが散乱していました。

北側の先端は一段と高いところがあって、物見櫓があったらしく、やっぱり山城だと感じ入ります。

頂上まで30分足らず。ここからさらに尾根筋を登ったところにも物見櫓跡があるらしいのですが、さすがにもう6時、暗くなり始めていたのであきらめました。

同じ道を下ってお寺の境内に出ます。まずいかなと思いながら、不法侵入し、出丸跡に向かいます。

この尾根筋の先端の先端、比高2,30メートルぐらいの小高い丘があります。これが出丸。小さいながら独立山になっています。

お寺の門の先の民家の横から登り、すぐに平らな二の丸らしい場所に出ます。そして中央に本丸。ぐるりと二の丸が囲み周囲は絶壁。思わず拍手。

勢力が弱かったときの山城の典型を見た気がします。条件は完璧。私はこちらの方が感動しました。

古い時代の猿掛城だそうで、元就の時代は出城になっていたと言う事です。

この出城はお奨めです。麓から5分もあれば登れます。ちゃんと整備されていてよく遺構が残っています。

空掘だったと思われる寺との間の竹やぶの道を下ると、あたりは田んぼ。5月でしたから先ほどまでいたゴルフ場のグリーンみたいでした。

車まで戻りながら下から出丸を見上げるといい城だなあと改めて思い知らされました。

鉄砲の無いころの山城は趣があって面白いですねえ。

吉田にはまだまだこんなところがあるんでしょうね。ゆっくり登ってみたいもんです。


新高山

豊田郡本郷町

小早川隆景と言えば、毛利元就の三男、知恵者で有名ですね。

元就の勢力安定の為に次男元春は吉川に、そして隆景を小早川に出し、家督を分捕った。とまあこう言えばうがった見方かもしれません。

でも、どうやらうさんくさい匂いがぷんぷんします。

始め竹原小早川のお家騒動につけ込んで、養子入り。毛利の威厳をちらつかせて本家沼田小早川まで牛耳った事から見て、元就の力と、隆景の賢さが飛びぬけていたということかも知れませんね。

吉川も似たようなもんですよね。

どちらにしても、瀬戸内の支配権を手に入れたわけですから元就恐るべし。

沼田川(ぬたがわ)沿いの本郷の中心地近くには、山城にもってこいの急峻な山があちこちあります。

沼田川は暴れ川で、山肌を削り湿地を陸地に替えて、豊かな農地を作りました。その河口に広がるのが三原市です。

三原から車で15分ぐらいでしょうか、国道2号線を広島方面に進むと沼田川と離れていくところがあります。

ちょうど川を挟んで左右に絶壁の山が対峙しているのが見えます。そのど真ん中を新幹線が通過しています。

右手(三原より)の山が旧高山。沼田小早川家の居城です。

左手が小早川隆景が築いた新高山です。新高山は独立山ではありますが、大きく見れば尾根の先端。太古には旧高山と繋がっていて沼田川によって引き裂かれたような感じがします。

当時はこの山の麓まで船で上れたんだそうで、船着場があったそうです。さすが小早川水軍ですな。

今日は私以外に小学生3人、幼稚園2人の6人の登山です。と言うより子守りですね。

皆お弁当を持ってピクニックです。

登山者の為に登山口付近に駐車場があります。これは親切です。ここから神社の前を通って畑の中に登山口があります。

実はこの日、仏通寺に紅葉を見てきました。それだけなら良かったんですが、仏通寺山を登ってしまいました。

幼稚園児にとってすでに疲労困憊状態です。私も良く考えればわかりそうなものですがね。

始めは谷筋の緩やかな山道です。道も広く歩きやすかったのですが、一人例の年少が遅れます。(スキーにいったよ参照)

少し登っては休み、とても景色など楽しめません。

しばらく登ると右手に数々の段があります。石垣の跡は見つかりません。この段が番所跡らしい。

左に鐘の段に分岐するところを過ぎて、石だらけの急坂を登ったところにお寺(匡真寺)の跡。

瓦のかけらや石がごろごろ転がっています。ここからが急な坂になります。尾根筋でマサ土なので滑る滑る。

ヒイヒイ言いながら、遅れ気味の年少をムチとアメで登らせて、たどり着いたのが中の丸。

なだらかになって大手門跡、本丸に到着します。

頂上には石仏が沢山あって、信仰の対象にもなっているようです。

見晴らしの良い岩の陰で早速お弁当を広げます。

さっきまで疲れて何も言えなかった子供たちも、生き返ったようにむさぼりました。

頂上には一本大きなさおが立てられています。”このさおを良く覚えとけよ”私は皆に謎をかけます。

ほんと、ご飯を食べると何でこんなに元気になるのでしょう。

みんなしばらくはしゃぎます。ただまわりは絶壁ですから、足を滑らせたらそのまま沼田川まで一気に下山してしまいます。もちろん二度とお弁当は食べられません。

真下に見える新幹線のトンネルを指差して、”あそこから新幹線が飛び出してくるぞ”

どこどこ?皆自分だけは落ちまいと誰かをつかんで恐る恐る覗きこみ、”ほんとじゃああ”と大騒ぎ。

私も新幹線に乗るたびに、ほんの一瞬のこの沼田川越の間に新高山を見ようとしては見たんですが、真上でもあるし見たことはありません。皆さんもチャレンジしてみては?

小早川隆景が選んだ山ですから、登るどころか見ることも出来ません。川沿いからの攻撃は不可能です。

程ほどに帰り支度をして下山開始。

帰りはもっと滑ります。ほんとに気をつけたほうが良いです。

登山口まで下って、頂上が見えてきたので、みんなに”ほら、あのさお”と指差すと、ふぇ〜〜とびっくり。

”あそこにいたんだよ””あんなところまでのぼったの?””すご〜〜い”

とりあえず面目は保ちました。


発喜山(保木山)

広島市安芸区

安芸区矢野町と呉市の境にある絵下山は、TSSとホームテレビの電波塔が30年前ぐらいに出来て、頂上まで車で登れるようになりました。

矢野三山と言って、この絵下山、明神山、発喜山がこの辺りでは群を抜いてそびえています。

絵下山に登ると、広島市内が一望でき、江田島を正面に瀬戸内海のパノラマが広がります。

頂上の展望だけを楽しんでも良し、整備されたハイキングコースをのんびり歩くのも良し、老若男女手軽に楽しめるところです。

絵下山から宇品方面の視界をさえぎる形の良い山が明神山。その間に少し低く北よりにあるのが発喜山です。

絵下山から見ると、なんでこんなところにと不思議にもなりますが、ふもとの矢野ニュータウンや国道31号線から見ると、見るからに野武士がたむろしていそうな絶壁で、なるほどとうなずけます。

発喜山は、南北朝時代と、戦国時代の山城跡があります。

以前にも書いた高松山の熊谷氏が、南朝方でこの山の尾根に矢野城を築きました。

場所は野間神社の眼下、県道に近いところです。

北朝方の足利尊氏は守護武田氏に攻めさせ、これを落としています。

そして戦国前期に野間氏がこの辺りを治め、矢野城のさらに上部、発喜山頂上、現在野間神社のある所に保木城を築き、大内方として瀬戸内制海権保持、山陽道の監督を行いました。

野間氏はやはり毛利氏と激突。城は落ち、一族皆殺しになったとか。

この野間氏滅亡については、残酷な毛利元就のエピソードが残っています。

そのうち、このHPに毛利元就の特集を作りたいと思っています。

ところで、本来の登山口は、県道矢野安浦線の天神バス停付近にありますが、私はここから登った事はまだありません。

絵下山頂上には時々子供を連れて山歩きに行きます。今回も頂上に車を止めて登山ならぬ山下りをしてみました。

同行者は小6と年中。以前小4も連れて弁当持参で歩いた事もあります。

今回は野間神社と保木城探索です。

と言ってもちょっとのつもりでした。森林公園に行く予定でしたので。

テレビ塔脇から明神山方向に登山口?があります。普段からハイカーが多く、道は整備されています。

この道をどんどん下っていくと途中明神山との分岐点があります。

右手の道をとってさらに下るとやがて道は険しく滑りやすくなり、子供の足ではちょっと困難になります。

いつも思う事ですが、登るよりは下るほうが大変です。とくに風化花崗岩質の山は滑ります。

尾根筋を下っていくと堀切らしい跡があり、山城の匂いがし始めます。ただ大規模ではないので上から攻めれば落ちやすかったのかもしれません。

やがて大きな岩がごつごつした場所に、小さな神社があり石垣等の遺構のある平らな部分に到着します。

野間氏の神社だそうですが、ここが保木城跡です。

周囲に郭があるそうなんですが、絶壁で岩だらけ。

子連れで危険なので、詳しく歩き回りませんでした。

ここまで、30分程度。この下20分降りたところに矢野城跡があるそうですが、今日はここまで。

頂上は眺めもよく、広島方面、海田湾、山陽道などが一望できます。

下からの攻撃には堅固だったでしょうね。落とす石もいくらでもあります。

子供たちがおなかが空いたと言い出したので、早めに引き返します。今日はお弁当を持ってきていません。

帰りは登り。ダウン寸前の年中を励ましてようやく絵下山頂上帰還。

本来山登りをする予定ではなかったので、子供たちはグロッキーです。

食事をして森林公園へ。

森林公園の昆虫館が今日の目的でした。

公園に着くと、元就ブームのときに出来た山城の復元がありました。

”登ろうか”と言いましたが、二人とも目を合わせませんでした。

そのくせ元気に遊具で遊び、帰ろうと言っても帰りません。

所詮450年前の事なんか興味があるはずがありませんなあ。


神辺城

深安郡神辺町

この山、以前から行ってみたいと思っていました。

備後の守護の居城で、代々の有力者がこの拠点を争奪し、福山城完成までの約250年間備後の中心だった城です。

南北朝期、朝山氏(景連)が守護として関東より移封され、この山に最初に城を築きます。

その後、山名氏、杉原氏など歴代の守護が居城して城の拡張を行い、城下町を建設しています。

この城も、大内尼子の争いに巻き込まれます。大内方の杉原理興は、当時神辺城にいた尼子方の山名忠勝を落とし入城します。

その後尼子方に付いて山名姓を名乗る杉原理興は大内方の毛利氏によって追い出されますが、元就に許しを請い再び城主となります。

関が原以後、福島氏、その後水野氏が入城。水野勝成が福山城を築城して、この城の歴史の一幕は降りました。

古代からこの辺りは山陽の要衝だったようです。

おそらく福山の市街地が当時開墾されてなく、半分砂地のような水辺だったのでしょう。

備後の中心地はもっぱら府中市を含めて神辺平野だったと思われます。

それは神辺城の頂上に登れば納得できます。

太古には芦田川もこの山の麓を流れていたでのしょう、切り立った山すそはその侵食によるものと思われます。

さらに芦田川は上流から肥沃な土砂を運んでこの平野を作り、現在のように西の山すそを流れています。

この広大で水利の良い平野に、人間が集まるのはごく自然な事です。

芦田川の下流に、中世の町並みがそっくり埋まった草戸千軒遺跡がありますが、この神辺平野の海の玄関だったのではないでしょうか。

江戸期に入って、現在の福山城が建設されて、神辺平野の隆盛は一区切りしますが、この地はどうも古代からの匂いがして興味津々と言うところです。

ただし、古代にこの平野があったならという条件がつきますが。

この山に登る事だけを目的に、夏の休みの暑い日、一人で高速ぶっ飛ばして一時間半、(法定速度は守ります)わくわくしながらたどり着いたのです。

超有名なのですぐにわかるだろうとガイドブックは持ってきませんでした。

福山東インターを降りて東城方面にしばらく行くと、やがて井原方面分岐の交差点。

右にとって井原方面の国道に入ると正面にいきなり現れます。

すごい山です。

神辺駅付近の公民館に車を置いて西山麓に登山口を探しますが見当たらず、立て看板も何もありません。

戻って公民館近くに小さな神社があり、その境内から右手に登山口がありました。

しかし案内も何もなく、人が歩いた形跡もありません。

頂上に向かった道ですから間違いはないだろうと登っていくと、途中で夏草が生い茂った荒れた道になりました。

とても歩ける状況ではないので仕方なく引き返します。有名な山なのに登る人がいないのかな。

後で思えばこの道は頂上下西の郭に繋がる道で行けない事はなかったようです。

麓に下りて大手道を探しますがその気配がありません。

駅を過ぎて右手に神社があるところにようやく案内板。

吉野山公園と歴史民族資料館はまだ先でした。

吉野山?この山吉野山って言うのか。知りませんでした。(紅葉山、古城山が本当らしい)

ちょうど東の山麓に谷があり、ここが登山口のようです。

公園用の駐車場に止めて登り始めたのですが、なんと道はアスファルト。しかも幅3メートルぐらいはあります。

”なんでここを歩かすのかな”不思議な思いで正面を見上げると、なんと天守閣があるではありませんか。

”んなばかな”

これが歴史民族資料館だったのです。東の出丸に2層の白亜の天守がそびえています。

と言う事はあそこまで車で登れるんじゃないか。

歩いて中間のブランコのある公園まで登っていましたが、ようやく訳がわかったので引き返して車で資料館まで登ります。

当時の面影のある山道なら登っていても苦にはなりませんが、造成して遺跡も何もぶち壊して作った車道では歩く気にはなりません。

出丸と本丸の間の鞍部まで舗装され駐車スペースがあります。

残念ながらここに空掘があったかどうか、アスファルトのみが知るところです。

気を取り直してまず資料館へ。

ところが休館日。月曜日でした。残念。せっかく壮大な天守閣に登れると思ったのに。(皮肉ではありませんよ)

と言うわけで山登りはここからようやく始まります。

もうしゃべっちゃいましょう。

最悪。

がっかり。

眺めの良いお花見公園でした。

山頂に向かって正面に案内板がありました。

やはり近世まで使われていた城だけに、天守や櫓があったようです。福山城建設時に一部移設されたとか。

それは良いとして、南側に遊歩道が幅2メートルで削られています。さらにコンクリートの橋が。

ほとんど高低差はなく先ほどの西の郭に簡単に出ます。どうりで山道を歩いて登る人がいないわけだ。

このコンクリートの橋の下を、誰も何も感じないでバーベキュウセットを持って渡るんだろうなと寂しくなります。

そこは大きな堀切で、しかも大きな岩盤をのみでこつこつ切り開いただろう見事な遺跡があるのです。

そして北側にもブルドーザの跡。この堀切は埋められています。”なんちゅうことすんねん”

そもそもこの道は搦め手で、通りにくく作ってあったはずですから、多少は手をかける必要があったかもしれませんが、あまりにも自分達の財産を浪費しすぎています。

西の郭(名前を調べる気持ちになりませんでした)にはトイレがあり、桜が植樹されきれいに造成までしてあります。

その上の段も本丸跡もそうです。当時の縄張りかどうか疑問が残りました。

本丸跡は周囲の木立が視界をさえぎって絶景とは言えませんが、この西の郭からの眺めは今までのストレスをふっ飛ばしてくれます。

遠く芦田川、北西に広がる見事な平野、新市駅家はもちろん、府中市まで見渡せそうです。

南福山方向は山並みにさえぎられていますが北側も人間一人一人見えるようです。

この郭の一段上にかなり広い郭があります。なんとブランコ。

さらにその上に、頂上の尾根伝いに細長い郭。ここに大手道が続いていました。

大手口は私が最初に上った西の道と、車で登った東の道の中間、北側にあります。

後で大手口を探したのですが、見付ける事が出来ませんでした。

尾根の郭のまた一段上に本丸跡らしい円形の広い郭があります。

その北側の尾根筋に2段の郭があり、井戸跡が見うけられます。

とにかく大規模な山城ですね。代々手を加え、広げていったのでしょうが、完成度は広島で最高ではないでしょうか。

ただ、近世の天守などがあった割にはその残骸らしいものが見当たりません。石垣や瓦や土塀のような。

造成で埋め立てられたかな。

所々に立て看板があるのですが、”ごみをすてないで”と言ったようなものばかり。

史跡の案内はまったくありませんでした。

沢山人が来るのなら少しでも理解してもらって、史跡を大切にしてもらう方が大事な気がします。

たとえば、最初の空掘、井戸跡、大手道跡、本丸跡等々。

それから、書くまいと思っていましたがもうひとつ。西の郭の下に西に向かった二つの像。

ひとつは石像で観音様のようでした。もうひとつはブロンズ像で背広を着ていました。

誰か見てやろうと思ったのですが、ばかばかしくてやめました。誰かは知りませんがえらい人なんでしょう。

神辺城。

とにかくすごい歴史の城です。

期待していっただけに、私の落胆は大きいものがあります。

超一級の史跡を持ちながら、無残にも荒れ果て、その事に気付かないと言う事は、南北朝時代からの歴史にピリオドを打ち、備後の中心地の誇りを惜しげもなく捨てたようなものです。

神辺城は昭和に落城した、とも言えるでしょう。

こうやって山城に登ると、様々な人間模様が浮かび、そのたびに一喜一憂しこれはこれで感慨深いものがあります。

ただ神辺城に付いては、もう少し現代の我々が理解し、遺産の重要性を踏まえて、地域住民のための開発を進めるべきだったように思います。歴史に失敗はつきものですから。

同じように、広島市の黄金山も完全に破壊されていますが、神辺城と比べるわけには行きません。

せめて、山頂の城跡に触れて、将来を創造する子供たちが育ってくれればと願います。


山城見聞禄、いかがだったでしょうか。

とりあえず、第1弾をこの辺りで終わります。

他にも登った山はあるんですが、記憶があいまいだったり、時代が新しかったりしますのでここで一休み。

たっぷり充電して第2段をお届けします。

おたのしみに〜

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