SUZUKI RG250Γ

2012/12/31


85年夏にRZ350Rと別れた後、しばらく別の趣味に没頭していてバイクを少々忘れてました。その趣味が落ち着いた時、やはり私の趣味はバイクだと気づき87年7月急に思い立ってバイクを購入することにしました。金は依然あまりないので、やはり250ccの中古を探しました。そして既に中古市場に大量に放出されていたスズキの人気車RG250Γ(ガンマ)を非常に安く(13万円)見つけたのです。しかしこれが安かろう悪かろうでした。それは後ほど。因みに納車は7月9日(木)でした。

このバイクについて、私があまりウンチクを述べる必要はないでしょう。あの数々の名車が輩出された空前のバイクブームだった1980年代にあっても、このバイクの登場時(1983年3月)の衝撃は忘れることができません。市販車初のアルミフレーム、本格的カウル、クラス最高の出力など史上初は随所にあり、初ではないものの当時のバイクの最先端技術、流行もふんだんに盛り込まれていました(別体サイレンサー、ダブルアンチノーズダイブ、対向ピストンキャリパー、セパレートハンドル、オプションのシングルシート、モノサス、16インチフロントタイヤなどなど)。

また細かいことですが、レーサー然としたラバーマウントのメーター類。しかもタコメーターは3,000rpm以下目盛りがない。これは芸が細かかった。性能には何も関係ないですが、こんなところにも気を使ったのがすごいです。

[3,000rpm以下のメモリがないタコメータ]

センタースタンドを取り払ったのもロードスポーツではガンマが最初だと思います。ミシュランタイヤ標準装備、ラバーを取り去りアルミむき出しのステップ類などなど、枚挙にいとまがありません。スズキは本当にやるときはやります。

こんなすごいバイクでしたが、発売当初の83年はまだ苦学生。新車が買える金がある訳がなく、指をくわえて見ていなければなりませんでした。当時はもうすっかり前時代のZ250FTにまだ乗ってました。その後RZ350Rに乗れたので、パフォーマンス自体はガンマよりも遥かに高いバイクに乗っていたのでそれほど卑下することはないのですが、最先端の技術に目がない私としては依然憧れのバイクでした。結局4年たって、夢がかない購入することができた訳です。

このバイクの頃からやっと写真を撮る習慣ができ、このバイクの写真はたくさんあります。ただツーリング先で風景と共に取ったものが殆どで、あまりバイク自体が大きく写っていません。バイクをしっかり据えて撮った写真はこの写真しかありませんでした。細部をとった写真に至っては皆無です。

一応オプションであるアンダーカウルもついたフルカウル仕様でした。写真を見てもすぐ気がつかない人が多いと思いますが、車体は83年の初期(1)型ですが、カウルは2型でした。もっとも2型なのはアッパーカウルだけで、センターカウルアンダーカウル1型という変則的な構成でした。

このバイクはほぼノーマルで乗ってました。吸気だけノーマルのエアークリーナーを外して、エアファンネルに交換してキャブのメインジェットを1番上げたくらいです。金が無かったことが一番の理由ですが、さらにこのバイクは不具合が多くて、やたら修理代などに金がかかり、改造、カスタム費にかける余裕がありませんでした。
 

このバイクについては、故障、事故、違反とバイクトラブル3点セットをやりました。まずは故障から。

とにかく当初からやたらかぶるのです。そのため何度も片肺になってしまいます。オイルがシリンダー内に入り、燃焼させる2サイクルにとって、ブラグかぶりはある程度宿命なのですが、それにしても酷かったです。勿論プラグの交換や掃除などかぶりの初歩的対処はしましたが、すぐまた起こります。キャブレターのオーバーホールなどもして、しばらく調子が良いと思ったら、そのうち再発します。それ以外にも何かやったような気がしますがよく覚えていません。最終的にキャブレターを交換しました。そうしたらやっと完治したのです。購入してから1年が経ってました。

しかしそれが済んだら今度は電気系のトラブルが始まりました。雨に濡れるとライト類(ヘッドライト、ウィンカー)がつかなくなってしまうのです。これもバッテリー交換したり、いろいろなことをしたような気がします。最後にバイク屋でハーネス含め電装系をごっそり変えないといけないかもという話をしながらいじっていたら、ある部品から火花が散ってがでました。その部品とはレクチファイアーという部品でした。どうもこの部品がおかしかったようでした。それが分かったときのバイク屋のにいさんのセリフを思い出すと今でも腹が立ちます。「あ、それガンマではめちゃくちゃ不具合が多い場所だ」でした。その時は「そうだったんだ。やっと原因分かって良かった」と思ったのですが、よく考えたら、じゃ何で今の今までそこを疑わなかったのか。それまでかなり金をかけたのにそれは無駄だった訳です。

その他、これは単に私の整備不良ですが、関西への長期ソロツーリングの途中(88年9月26日(土))、豊橋あたりで何とスプロケットが外れてしまったのです。実はその数週間前に友人と日本海ツーリングに行っていて、その際後ろを走っていた友人がスプロケットがぐらぐらしているのに気づき、指摘してくれていました。それにも関わらずボルトの増す締めもしないでいたので、ついに外れたのです。ただこの時は非常にラッキーでした。バイクが止まったすぐ近くにシェルのガソリンスタンドがあったのですが、そのスタンドは腕のいい整備士がいて、ものの20分くらいで直してくれたのです。

[腕のいい整備士がいたガソリンスタンド]

 

次に事故についてです。当時はETCなんてものはないので、いつも高速道路の料金所では四輪車に迷惑がかからないよう、列をはずれて降りて、徒歩で払うといった方法をとってました。1988年5月26日(木)箱根方面へソロツーリングに出かけた時のことです。場所は西湘バイパスの料金所。いつものように料金所の列を少しはずれてバイクを止め、降りて徒歩で料金所でお金を払い、戻って乗って料金所を通り過ぎた訳ですが、その際サイドスタンドをしまい忘れたのです。当時のバイクはサイドスタンドのしまい忘れ防止機能なんてついてませんでした。しばらくは直線だったので、もう100km/h以上は出てしまっていたと思います。ゆるい左カーブにさしかかって、ガリっと音がしてカーブを曲がれません。その時にしまい忘れに気づいたのですが、時既に遅し。サイドスタンドの位置は若干遠く、咄嗟には戻すことができませんでした。結局中央分離帯の柵に激突したのです。

高速道路で事故ったら死ぬと思っていたので、その時は死を覚悟しました。バイクから投げ出されてころがっている時に、時間的には一瞬だったとは思うのですが、走馬灯のように思いがめぐりました。「おふくろ、ごめん。やっぱり俺、バイクで死ぬは」と母親の顔を思い浮かべ、詫びていました。しかし気がつくと生きてました。それどころか立ってました。確かに数箇所怪我しているようでしたが、骨折なども全くしてません。早朝だったので他の交通も殆どなかったことが幸いし、後ろから来る車に轢かれるといった二次災害もありませんでした。

たまたま西湘PAのすぐ近くだったので、そこまでバイクを押していき暫し呆然。しかし怪我も大したことなく、バイクも右側に倒れたので、右のミラーとリヤブレーキレバーが折れたくらいでエンジンも普通にかかる。これならツーリングも続行できるなと思ったのですが、やはり怪我しているのでやめた方がいいかなと思って、引き返すことにしました。これは決断して良かったです。その後足の怪我部分がだんだん傷みが増してきて、バイク乗っているのも辛かったです。何とか自宅にたどり着き姉貴に治療を頼んだのですが怖くてできないと断られ、結局自分で治療したのを覚えてます。オキシドールと赤チンを塗ったくらいですが。

 
次に違反についてです。もともと安全運転に徹するタイプではないので、今までのバイクでもちょろちょろと違反を繰り返していましたが、このバイクでは何と4回やってます。合図不履行2回通行禁止違反踏切不停止がそれぞれ1回です。

最初の合図不履行87年10月8日(木)千葉南房総ツーリングの帰りで、次に88年1月31日(日)、多摩湖方面に行った帰りにちょっと遠回りした国道246でのことでした。それぞれあまり覚えていませんが、恐らくもう少し重い違反をしたのを、軽いこの違反にしてもらったのだと思います。普通合図不履行だけでは捕まえないと思います。次の通行禁止違反88年8月6日(土)、国道246号線の赤坂陸橋です。現在ここは原付のみ通行禁止ですが、当時は二輪は全面的に通行禁止でした。それを知らなかったのか、わざと通ったのかは覚えていません。

最後の踏切不停止は、89年4月21日(金)、千葉犬吠崎にツーリングに行った際にタイディムシートにくくりつけていたバックを落としてしまい、それを探しに戻った時に通った踏切でした。ローカル線で殆ど走ってなかったと思いますが、そこで捕まってしまったのです。結局バッグも見つからず、カメラなどを紛失しました。全く泣きっ面に蜂とはこのことです。しかもこの違反で違反点数が累積7点(合図不履行が1点で2回、通行禁止違反が2点、一時不停止が2点、実はこの他に車で88年10月7日(金)駐禁をやっていてこれが1点)になりました。つまり6点越えの初めての累積での免許停止(一ヶ月)になってしまったのです。

 

ツーリングの写真はこちらへ

 

さてこのバイクこそ250ということもあり、長く乗っていきたかったのですが、私が89年8月にアメリカに留学することになり、やはり手放すことにしました。普通に下取りできる代物ではなかったので、後輩にただ同然で売ってしまいました(89年7月2日(日))。

諸元
発売年月 1983年3月
全長×全幅×全高x軸距 2050×685×1195x1385mm
乾燥重量 131kg
排気量 247cc
エンジン形式 2サイクル並列2気筒
弁機構 ピストンリードバルブ
冷却方式 水冷
内径×行程 54×54mm
圧縮比 7.5
最高出力 45ps/8500rpm
最大トルク 3.8kg-m/8000rpm
ミッション 6速リターン
タイヤ 100/90-16 100/90-18
タンク容量 17ℓ
価格 46万円

 


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