Essay - 倉敷通信(くらしきの話)- 進藤和丸

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編 集 テ ー ブ ル

タイトル
  倉 敷 通 信
               Thu, 2 Oct 2003 から
                          進 藤 和 丸      
    
倉敷通信(くらしきの話その16)    2003年10月02日 14時12分

From: "進藤和丸" <kaze@shindoes.com>
To: "小島 工" <takumi@kojima-net.com>
Subject: 東京滞在記2 [倉敷通信(東京滞在2)]
Date: Thu, 2 Oct 2003 14:12:24 +0900
X-Mailer: Microsoft Outlook Express 6.00.2800.1158

 「倉敷通信(東京滞在2)」を送ります。気負うことなく、と思っているのです
が、中々難しく時間がかかりました。どこで、終わりにするのか分かりませんが「東
京滞在3・・・・」と続ける予定です。宜しく。
 ところで、病院で検査を受けたようですが、結果はどうでしたか。簡単なようで
も、全身麻酔手術でしょうから慎重に臨まれることを、お祈りいたします。お大事
に。 

 倉敷通信(東京滞在2)

[倉敷通信(東京滞在2)]
半世紀以上も経つのだから、この付近は変化している。まず井の頭線である。昔は、
渋谷〜神泉〜一校前〜駒場となっていた、だが今は「駒場東大前」になり場所も違
う。昔は東京農業教育専門学校が「駒場駅」前にあり一高前は東大前になって、それ
が一緒になって現在の駅になったのだ。昭和40年(1965年)に現在の位置に
移った。

 半世紀以上も経つのだから、この付近は変化している。まず井の頭線であるが、昔は渋谷〜神泉〜一高前〜駒場となっていた。だが今は「駒場東大前」になり場所も違っている。昔は東京農業教育専門学校が「駒場駅」前にあり「一高前」は東大前になっていた。それが一緒になって現在の「駒場東大前」駅になったのだ。現在の位置に移ったのは昭和40年(1965年)であった。
 
母校の親学校であった「農教」は、東京教育大学そして筑波大学となり、跡地は「駒
場野公園・共通一次試験センター事務局など」が立地している。東大教養学部を含め
てこの付近は、明治の最初に駒場の農学校であって札幌の農学校と並んで近代農学発
祥の地である。現在も、中学生の田植え作業といって週刊誌に時々掲載されている田
圃が、電車から渋谷方面の右側に見える。この田が「ケルネル田圃」と云って、近代
農学の発祥地としての由来があり、今では付属中学が管理している。

 母校の親学校であった「農教」は、東京教育大学そして筑波大学となり、跡地は「駒場野公園・共通一次試験センター事務局など」になっている。東大教養学部を含めてこの付近は、明治の最初に駒場の農学校であった。札幌の農学校と並んで近代農学発祥の地である。現在も、中学生の田植え作業といって週刊誌に時々掲載されている田圃が、渋谷方面行きの電車から右側に見える。この田圃は「ケルネル田圃」といわれ、近代農学の発祥地として今では付属中学が管理している。
 
 新宿・渋谷といった盛り場から杉並・世田谷に出ている郊外電車が、いつ頃出来た
のか調べてみた。京王線が大正2年(1913年・笹塚〜調布)引き続き大正5年に
は新宿〜府中が開業し、小田急線が昭和4年(1929年)そして井の頭線は昭和
8年、渋谷〜井の頭公園の区間が開通し9年に吉祥寺まで開業した。

 新宿・渋谷といった盛り場から杉並・世田谷に出ている郊外電車がいつ頃出来たのか調べてみた。京王線が大正2年(1913年)笹塚〜調布まで、引き続き大正5年には新宿〜府中が開業し、小田急線が昭和4年(1929年)、そして井の頭線は昭和8年に渋谷〜井の頭公園の区間が開通し、昭和9年に吉祥寺まで開業した。


 関東大震災以降、住宅地は、まづJR中央線に沿って伸び、それと併行して、交通
機関の整備が行われ「成城学園・玉川学園など」の学校もこうした私鉄沿線に立地し
た。旧制一高が「井の頭線の開通」と同時に、創立以来の本郷「向うゲ丘」から
、明治政府の期待を担った「駒場の農学校(東大農学部)」と場所を交換したのであ
る。 丁度、我々がこの世に誕生した時代、第2次世界大戦の予兆はありながらも、
つかの間の平穏を保ち、サラリーマンが郊外に家を求めていたのだ。

 関東大震災以降、住宅地は、まづJR中央線に沿って伸び、それと併行して交通機関の整備が行われ、私鉄沿線には「成城学園・玉川学園など」の学校もつくられていった。旧制一高が「井の頭線の開通」と同時に、創立以来の本郷「向うゲ丘」から、明治政府の期待を担った「駒場の農学校(東大農学部)」と場所を交換したのもこの頃である。 丁度、我々がこの世に誕生したこの時代、第2次世界大戦の予兆はありながらも束の間の平穏が保たれ、サラリーマンが郊外に家を求めていた時期でもあったのだ。
 

 8月17日、九段の昭和館での「学童疎開のパネル展示に「代沢国民学校」に児童達
の写真があった。当時の農教付属中学には、代沢小をはじめとして、駒場付近の小学
校卒業生が多く多分同級も写っているのだろう。私は、小田急線「梅が丘」にある
「山崎小学校」出身だし、パネラーも立高先輩の星田さんが荻窪にある「桃井小学
校」だ,あとのパネラー二人も小田急沿線の小学校出身だった。

 8月17日、九段の昭和館での「学童疎開のパネル展示・代沢国民学校」に児童達の写真があった。当時の農教付属中学には代沢小をはじめとして駒場付近の小学校卒業生が多く、多分同級も写っているのだろう。私は小田急線「梅が丘」にある「山崎小学校」出身だし、パネラーも、立高先輩の星田さんが荻窪にある「桃井小学校」出身、あとのパネラー二人も小田急沿線の小学校出身だった。
 

 駒場には、「柳 宗悦」が創設した民芸館、前田公爵家など歩くと楽しい。足をす
こしのばせば新しい盛り場「下北沢」もある。私は戦後、三鷹に移り住むまでこの附
近で少年時代を過ごしたので、歩くと懐かしさと都市の変化に驚きとを想うのであ
る。それは、かっての「天下の一高」が東大教養部になり、井の頭線の永福町から吉
祥寺よりには畠が広がり、高井戸には新宿の内藤家が広々とした本宅があり、幼年時
代に連れられてきた、井の頭の池には「ポンポン蒸気船」が走り、池畔は杉林で覆わ
れていた時代であった。 

 駒場には「柳 宗悦」が創設した民芸館、前田公爵家などがあり、歩くと楽しい。足をすこしのばせば新しい盛り場「下北沢」もある。私は戦後、三鷹に移り住むまでこの附近で少年時代を過ごしたので、歩くと都市の変化に懐かしさと驚きとを想うのである。その想いは、かっての「天下の一高」が東大教養部になり、井の頭線の永福町から吉祥寺よりには畠が広がり、高井戸には新宿・内藤家の広々とした本宅があり、幼年時代に連れられてきた井の頭の池には「ポンポン蒸気船」が走り、池畔は杉林で覆われていた、そんな時代の記憶から浮かび上がるものであった。         東京滞在3へつづく。