Essay - 倉敷通信(くらしきの話)- 進藤和丸

原文は茶色です。編集中の文章は赤色です。編集終了後の文章は緑色です。

 

編 集 テ ー ブ ル

タイトル
  倉 敷 通 信
              Mon, 15 Sep 2003 から
                          進 藤 和 丸      
    
倉敷通信(くらしきの話その15)    2003年09月15日 13時48分
   From: "進藤和丸" <kaze@shindoes.com>
To: "小島 工" <takumi@kojima-net.com>
Subject: 倉敷通信
Date: Mon, 15 Sep 2003 13:48:33 +0900
X-Mailer: Microsoft Outlook Express 6.00.2800.1158
 [倉敷通信(東京滞在1)]

 倉敷通信(東京滞在1)                                              
 倉敷通信を、久し振りに送ります。パソコンのワードの中に気のついたことなど
2〜3編の文が入っているのだが、構えると時間がかかるし見栄もはたらき、億劫に
なる。そこで、身内の気安さから特にあらたまらずに、真夏の昼ねから起きたような
ボケた頭だが、東京の感想などを記そう。

パソコンのワードの中に気のついたことなど2〜3編の文が入っているのだが、構えると時間がかかるし見栄もはたらき、億劫になる。そこで、身内の気安さから特にあらたまらずに、真夏の昼ねから起きたようなボケた頭だが、東京の感想などを記そう。

 「住みついた処からの都市を見る」といった、都市を住居地から眺めた論文を書こ
うと、志してから既に1年は経つ。倉敷に住んでから4年目になる、その前は広島に
だ。東京は生まれ故郷だし、長男・次男は京都に10年以上住み着いている、年に1
0回近くは京都に行く、多少は馴染の店なども出来ている、何しろ昭和58年に長男
が京都の大学へ入学し、次男も平成に入ってから長男の後を追って、やはり医学部に
入学した。医者の修行は長い、学部が6年それから研修医・病院勤務さらに大学院が
4年もかかる、通算するとおおよそ15年は母校の付近に居住していた。おまけに
「心臓手術」を京大病院でし,家内も広島で手術するよりは、身内が居る京都がいいと
云ってこちらでした。いづれ東京・京都・広島・倉敷についての感想を纏めて見たい
、そんな気分なのだ。

 「住みついた処からの都市を見る」といった、都市を住居地から眺めた論文を書こうと、志してから既に1年は経つ。倉敷に住んでから4年目になる、その前は広島にだ。東京は生まれ故郷だし、長男・次男は京都に10年以上住み着いている。年に10回近くは京都に行くし多少は馴染の店なども出来ている。何しろ昭和58年に長男が京都の大学へ入学し、次男も平成に入ってから長男の後を追って、やはり医学部に入学した。医者の修行は長い、学部が6年それから研修医・病院勤務さらに大学院が4年もかかる、通算するとおおよそ15年は母校の付近に居住していた。おまけに「心臓手術」を京大病院でした。家内も広島で手術するよりは、身内が居る京都がいいというのでこちらでした。いづれ東京・京都・広島・倉敷についての感想を纏めて見たい、そんな気分なのだ。


 8月14日〜18日に4泊5日で東京に滞在した。普段は3割引きのJR運賃もお
盆なので割引はない、だが盆の休暇で孫娘の子守から開放されるし、15日は敗戦の
日なので家内が最近はじめた「学童集団疎開」の集会も東京でしているし、といった
ようなことで、上京した。

 8月14日〜18日に4泊5日で東京に滞在した。普段は3割引きのJR運賃もお盆なので割引はない。だが盆の休暇で孫娘の子守から開放されるし、15日は敗戦の日なので家内が最近はじめた「学童集団疎開」の集会も東京でしているし、といったようなことで、上京した。

 宿舎は、「駒場エミナース」といって井の頭線駒場東大前にある。井の頭線は、東
京に数ある私鉄の中でも好きな電車だ。渋谷〜吉祥寺を結ぶ十数キロの短い走行距離
だが、洒落たいかにも東京の郊外を走る電車である。出身中学校が、宿舎の直ぐ近く
にあり懐かしく以前に訪ねたことがある。丁度、教頭がいて一期生としての対応をし
てくれたので感じは良かった。

 宿舎は、「駒場エミナース」といって井の頭線駒場東大前にある。井の頭線は、東京に数ある私鉄の中でも好きな電車だ。渋谷〜吉祥寺を結ぶ十数キロの短い走行距離だが。出身中学校が宿舎の直ぐ近くにあり懐かしく、だいぶ前に訪ねたことがある。そのときは丁度教頭がいて、一期生としての対応をしてくれたので感じは良かった。

 駒場東大前から南側に5分も歩くと宿舎エミナースで、そこから一つおいた隣が母
校「筑波大学付属駒場中学校」である、卒業した時は「東京教育大学・東京農業教育
専門学校付属中学」といった、なんとも長い名称を持っていた。それから通称「教駒
・筑駒」で東大入学の受験校で呼ばれるようになってしまった。長男は広島大学付属
中・高校なので、受験時代にあんな名門校の出身なのに何故「立川高校」へと質問さ
れた、当時は「農教」と呼ばれ事実上無試験で入学できたので、高校に入る時,出来
の良いものは都立に行ったのだと説明しても、理解が出来ないようであった。
(この付近のデジカメ写真です)
http://home.att.ne.jp/sun/osum/komaba.html

 駒場東大前から南側に5分も歩くと宿舎エミナースで、そこから一つおいた隣が母校「筑波大学付属駒場中学校」である。卒業した時は「東京教育大学・東京農業教育専門学校付属中学」といった、なんとも長い名称を持っていた。それから通称「教駒・筑駒」で東大入学の受験校で呼ばれるようになってしまった。長男は広島大学付属中・高校なので、受験時代にあんな名門校の出身なのに何故「立川高校」へと質問された、当時は「農教」と呼ばれ事実上無試験で入学できたので、高校に入る時に出来の良いものは都立にいったのだと説明しても、理解が出来ないようであった。
(この付近のデジカメ写真です)
http://home.att.ne.jp/sun/osum/komaba.html


 中学に入学したのは、昭和22年の4月である。未だ戦後の混乱がいたるところで
みられた時代だ。校舎も兵舎の改造でありまさに自分達で新制度の学校を創りだした
のである。親学校の農業教育専門学校の片隅で、疎開から帰った薄汚いチビの中学生
100名が、本当に戦時中は軍隊があってそこの馬小屋であった、に集まり呱々の声
をあげたのだ。いまでも同窓生達は「脳狂の馬小屋」と自称して懐かしがっている。
同期で作成している雑誌には、広い雑草の茂った旧軍隊の兵舎跡の運動場を駆け回る
我々中学1年生を見ると「国が敗れても子供達がいる」としみじみ思ったと、書いて
いる。

 私が中学に入学したのは、昭和22年の4月である。未だ戦後の混乱がいたるところでみられた時代だ。校舎も兵舎の改造でありまさに自分達で新制度の学校を創りだしたのである。疎開から帰った薄汚いチビの中学生100名が、親学校の農業教育専門学校の片隅(本当に戦時中は軍隊があってそこの馬小屋であった)に集まり呱々の声をあげたのだ。いまでも同窓生達は「脳狂の馬小屋」と自称して懐かしがっている。同期で作成している雑誌に、広い雑草の茂った旧軍隊の兵舎跡の運動場を駆け回る我々中学1年生を見ると「国が敗れても子供達がいる」としみじみ思ったと、当時の教官は書いている。

「悲惨な過去か、古き良き時代か」1997年、筑波大学付属駒場中・高等学校の
創立五十周年記念誌に同期性が、投稿した文章の題名である。「一期生は国民学校を
卒業し新制第一期の中学生として、駒場の地で学び始めた。国民学校に入学した年に
勝てない戦争へ突入し、疎開・空襲・敗戦、その後も暫くは食料・衣類・住宅難など
散々な目にあった。・・・・・・・・」で始まる一期生の、想いは同年輩の我々に共
通した感情であろう。                                                                                
「悲惨な過去か、古き良き時代か」、1997年の筑波大学付属駒場中・高等学校の創立五十周年記念誌に、同期生が投稿した文章の題名である。「一期生は国民学校を卒業し新制第一期の中学生として、駒場の地で学び始めた。国民学校に入学した年に勝てない戦争へ突入し、疎開・空襲・敗戦、その後も暫くは食料・衣類・住宅難など散々な目にあった。・・・・・・・・」で始まる一期生の、想いは同年輩の我々に共通した感情であろう。  東京滞在2へつづく。