Essay - 2001.07.28

Essay - 倉敷通信(くらしきの話)- 進藤和丸

編集2回目に飛ぶ
 以下の「はじめに」は赤色の文字に直しました。
くらしきの話その1から読む
最初から読む

はじめに
 一通のメールが投稿されました。
  Subject: [kjjdoyokai:0149] ゲストブックから Essay へ
  From: 小島 工 <t-kojima@air.linkclub.or.jp>
   ゲストブックに、進藤さんの「倉敷通信(クラシキの話、その3)」が投稿されています。   ”次回ぐらいから、デジカメを買いましたので「土曜会のEメールの添付」で写真入りで、通信  を送りたいと思っています。”とのことです。
   ところで進藤さん、メーリングリストに写真を添付すると重くなるので普通はやりません。   普通はサイトにアップして、それを見て貰うようにします。そこで、小島個人宛に写真貼付のメ  ールを送って下さい。小島の方で解凍の上写真を加工して、文章とともにホームページにアップ  したいと思います。ホームページでは、Essay に載せるのがよいと思いますで(その1)から  全部の作品を移し替えさせていただければと思います。その際編集することになりますが進藤さ  んとは個別にメールで打ち合わせをさせていただきたいと思います。ML 上でやり取りしても良  ければ、そちらでもよいと思います。岡田さんのときのように。
   このことについて、皆さんのご意見をお聞かせいただき、参考にしたいと思います。
 このようにして、このエッセイは始まりました。 2001年10月04日 小島編集 

はじめに
 2001年3月29日、KDoyokai@Kichijyoji 吉祥寺土曜会ホームページが開かれました。
 進藤和丸さんから初めてのメールの題名は「井の頭での土曜会」で、4月3日 に投稿され、続いて4月4日「倉敷から」、4月8日「倉敷通信」と変わりました。
 ホームページのゲストブックに「倉敷通信」として、初めて投稿された4月11日からは、ゲストブック上での「倉敷通信」が定着し、以来8月31日まで、8本の「倉敷通信」が続きました。
 9月8日の「倉敷通信」には(くらしきの話その1)という副題がついていて、これが倉敷の生活を報告する第1回目の「倉敷通信」となり、10月3日まで3回続きました。
 2001年10月5日、進藤和丸さんの了解を得て、ゲストブックに投稿されていた「倉敷通信」を小島工が編集し、 Essay に掲載することとなりました。
 今後の「倉敷通信」は、直接 Essay に掲載されることとなります。

 このようにして、このエッセイは始まりました。  2001年10月06日 小島 編集 
 

 

 上段がゲストブックから転記した原稿です
下段が編集しアップしたものです。

編集2回目に飛ぶ

くらしきの話その1から読む
最初から読む

タイトル
  倉 敷 通 信   2001年09月08日 15時47分から                            進 藤 和 丸
倉敷通信(くらしきの話その3)   2001年10月03日 17時02分

 9月11日の事件があってから、世界が変わった気がします。じきに一ヶ月がちかずきます、世界
の事も重大ですが、とりあえず日常の話題にしぼります。

 9月11日の事件があってから、世界が変わった気がします。じきに一ヶ月が近づきます。世界の事も重大ですが、とりあえず日常の話題にしぼります。

 今日(10月3日)は、全くの年金生活に入って3日目です。家内は相変わらず広島に通っていま
す。孫のお守りが私にウエイトが掛かってきそうです、がしばらくの間のことと我慢しています。

 今日(10月3日)は、全くの年金生活に入って3日目です。家内は相変わらず広島に通っています。孫のお守りがウエイトとして私に掛かってきそうですが、しばらくの間のことと我慢することにしています。

 11時頃家を出て、畠に蒔く種を買いに倉敷の駅前の市街地に行きました。そこで買い物をしたの
ですが、品不足・店の主人のあいその悪さ等々、郊外に立地した店と比べると比較になりません。

 11時頃家を出て、畠に蒔く種を買いに倉敷の駅前の市街地に行きました。そこで買い物をしたの
ですが、品不足や店の主人のあいその悪さ等々、郊外に立地した店と比べると対応の悪さは比較にな
りません。

                                            現
在、地方では昔の商店街が滅びそうになっています。吉祥寺はそんなことも無く益々隆盛の一歩をた
どっているのは、ご同慶のいたりです。倉敷の商店街も地方都市の例に漏れず、惨たんたるもので
す。こちらに来てから2年も経たないのに、何軒ものみせが破産宣言のチラシをだしました。原因は
明らかです、郊外に大型店の進出・駐車場不足(大規模店が4000台の駐車場を持つ店を郊外に開
店の例)・絶対量の人口が不足・後継者の不足等々数えあげればきりがありません。

 現在、地方では昔の商店街が滅びそうになっています。吉祥寺はそんなことも無く益々隆盛の一歩をたどっているのは、ご同慶のいたりです。倉敷の商店街も地方都市の例に漏れず惨たんたるものです。こちらに来てから2年も経たないのに、何軒もの店が破産宣言のチラシをだしました。原因は明らかです。郊外大型店の進出(4,000台の駐車場を持つ大規模店が郊外に開店した例)・駐車場の不足・人口の絶対量の不足・後継者の不足等々、数えあげればきりがありません。

                                      私も「まちづく
り」を商売にしてきたひとりとして、ボランティア活動でもと思っています。年間400万人の観光
客が来る駅前の街が滅びようとしています。

 私も「まちづくり」を商売にしてきたひとりとして、ボランティア活動でもと思っています。年間400万人の観光客が来る駅前の街が滅びようとしているからです。

 次回ぐらいから、デジカメを買いましたので「土曜会のEメールの添付」で写真入りで、通信を送りたいと思っています。でわまた

 次回ぐらいから、デジカメを買いましたので「土曜会のEメールの添付」で、写真入りの通信を送りたいと思っています。

倉敷通信(くらしきの話その2)   2001年09月09日 16時25分

 大原家の総一郎を2代目というのは明確に云えば、違います。大原家は、江戸時代から伝統ある卸
問屋でかつ600町歩の田も所有する大地主でもあったのです。 他にも、大橋・原等の有力な商人
がいて、江戸から派遣される侍それは代官と呼ばれていましたが、そのお代官と協力して、倉敷地方
の政治を行っていたのです。ちなみに、広島は、安芸の国と備後の国でそれぞれ浅野藩と阿部藩で県
が構成され、外様と譜代との意識が現在でもあります。ましてや、倉敷の場合江戸幕府直轄領であっ
てみれば、岡山の池田藩に対しての対抗意識は、かなりのものであったであろう事は、充分に想像さ
れます。政治も代官のほうが、大名支配よりもかなり良かったらしいです。 

 大原家の総一郎を2代目というのは、明確にいえば違います。大原家は、江戸時代から伝統ある卸問屋で、かつ600町歩の田を所有する大地主でもあったのです。 他にも、大橋、原等の有力な商人がいて、江戸から派遣される侍、それは代官と呼ばれていましたが、そのお代官と協力して、倉敷地方の政治を行っていたのです。ちなみに広島県は安芸の国と備後の国(それぞれ浅野藩と阿部藩)で県が構成され、外様と譜代との意識が現在でもあります。ましてや倉敷の場合、江戸幕府直轄領であってみれば、岡山の池田藩に対しての対抗意識が、かなりのものであったであろう事は、充分に想像されます。政治も代官のほうが大名支配よりも、かなり良かったらしいのです。           
 明治維新の後、大原家が江戸時代に蓄えた財産を元に、倉敷紡績・倉敷レイヨン等々の産業を興したのも、江戸時代の商人の力であったと思います。関東地方も徳川の譜代あるいは直轄領が多くあり、その所為で千葉の佐倉の商人あるいは越後屋等の商売が成立したのでしょう。
でわまた

 明治維新の後、大原家が江戸時代に蓄えた財産を元に、倉敷紡績、倉敷レイヨン等々の産業を興したのも、江戸時代に栄えた商人の力であったと思います。関東地方にも徳川の譜代あるいは直轄領が多くあり、その所為で千葉の佐倉の商人あるいは越後屋等の商売が成立したのでしょう。

倉敷通信(くらしきの話その1)   2001年09月08日 15時47分        

 倉敷の生活を報告します。私の家は、山陽本線(新幹線ではありません)倉敷駅から東方約1,2
キロです。駅までは、徒歩で15分で、私はほとんど歩きますが家内等は車です。家の周囲は、昔
(土曜会の頃)の小島さんの家のあたりと似ています。ただし、こちら特有の水路や田圃がかなりあ
り、その中に新しい家屋と昔の農家が混在しています。中心市街地は駅前付近なので、買い物はそこまで行くか、車で郊外のスーパーです。

 倉敷の生活を報告します。私の家は、山陽本線(新幹線ではありません)倉敷駅から東方約1,2キロです。駅までは、徒歩15分で、私はほとんど歩きますが家内等は車です。家の周囲は、昔(土曜会の頃)の小島さんの家のあたりと似ています。ただし、こちら特有の水路や田圃がかなりあり、その中に新しい家屋と昔の農家が混在しています。中心市街地は駅前付近なので、買い物はそこまで歩いて行くか、車で郊外のスーパーへ行くかです。
                           倉敷市の人口は、約42万ですが隣接の岡山市が60万人を突破していますから合併すれば、広島と並んで制令指定都市なのですが、合併はしません。これには面白い話が伝わっています。1960年代の時代、倉敷市は新産業都市の優等生として倉敷の水島がさっそうと、川崎製鉄・三菱等の誘致に成功し、瀬戸内海の工業化の尖兵と位地づけられていたのです。県は岡山市と倉敷市との合併を計画したのですが、これに、ストップをかけたのが「大原総一郎」です。

 倉敷市の人口は、約42万ですが隣接の岡山市が60万人を突破していますから、合併すれば広島市と並んで制令指定都市なのですが、合併はしません。これには面白い話が伝わっています。1960年代、倉敷市は、新産業都市の優等生として、倉敷の水島がさっそうと川崎製鉄・三菱等の誘致に成功し、瀬戸内海の工業化の尖兵と位地づけられていたのです。岡山県は岡山市と倉敷市との合併を計画したのですが、これに、ストップをかけたのが「大原総一郎」だったのです。

 倉敷に来て驚くのは、大原家の残した大きさです。大原美術館・倉敷中央病院・IBスクウエアー・チボリ公園・美観地区等々それに本業としての「クラレ」の総帥として、倉敷にはたした「大原孫三郎(初代)大原総一郎(2代目)」の凄さです。その総帥が、合併にNOを唱えて倉敷と岡山の話は流れたのですが、合併したら新しい市の名前は倉敷にするならばという話まででたとの噂が現在も残されています。倉敷は、天領です、岡山は大名領です。この伝統が今でも感じます。例えば、倉敷の住民は、住所に岡山県とは書かないようです。私もこちらにきてからは、岡山の倉敷とは極力名乗りません。ただ、「クラシキ」に住んでいますと答えるようになりました。天領と大名領との差はどんなものだったのでしょうか。1回目は、これで。でわまた

 倉敷に来て驚くのは、大原家が残したものの大きさです。大原美術館、倉敷中央病院、旧スクウエアー・チボリ公園、美観地区等々、それに本業「クラレ」の総帥として、倉敷にはたした「大原孫三郎(初代)大原総一郎(2代目)」の凄さです。その総帥が、合併にNOを唱えて倉敷と岡山の合併の話は流れたのですが、合併したら新しい市の名前は倉敷にするならば、という話まででたとの噂が現在も語られています。倉敷は天領ですが、岡山は大名領です。この伝統が今でも感じられます。例えば倉敷の住民は、住所に岡山県とは書かないようです。私もこちらにきてからは、岡山の倉敷とは極力名乗りません。ただ、「クラシキ」に住んでいますと答えるようになりました。天領と大名領との差はどんなものだったのでしょうか。1回目は、これで。

倉敷通信   2001年08月31日 12時13分                 最初から読む
 8月の31日です。夏休みが終わる日は、いくら年齢を重ねてもいささかな感傷を抱くものです。今年の夏は暑い暑いと言っている間に、夏が過ぎた感じがします。孫娘も明日から学校です、倉敷の小・中学校には、明日9月1日の登校日に100万円を持ってこい、さもなければと言った脅迫状が各学校に届いているので、注意をするようにとのチラシが配布されました。多分、大阪で起きた事件の関連の愉快犯と思いますが、異常な人間が増えてきたのですね。        
 小島さんIT技術のご教示有り難う。岡田さん葉書の返事有り難う。東京のグループは古代の時代の探求に熱心に取り組んだ様子がネットを通じて伝わってきます。私も、その熱気に当てられてその方面の本を若干読んでいます。司馬遼太郎は当然ですが、森浩一著「関東学をひらく」とか「半藤一利」の著作など一般の書店で手に入るものばかりです。図書館に出掛けたり、現地に行って調査というほどの気は現在はありません。ただ、興味をそそわれるのが、出雲大社と「鑪」そして銅器から鉄器への移行、また、岡山における「日本刀」などなど、さらには「耶馬台国」は九州か中国かといった世界に入りたくは、多少あります。
 今年の夏は、旅に行かなかったので秋にはスイスにでも行きたいなーと思っていますが、どうなるか無精者にはいまだ結論がでません。             
倉敷通信   2001年08月24日 12時47分
 プルト・ハングルの旅、興味深く読みました。小島さんのkdoyokai boardの作成能力感心しました。また、岡田さんの探求心と、益田さんの長い間にわたる朝鮮への思い入れとあわせて、3人の努力に敬意をはらいます。皆さんに刺激を受けて私も司馬遼太郎の本を拾い読みしております、縄文と
弥生の入り交じる日本の曙の時代はどんな様子であったのか、西日本と東日本との関係も含めて関心のそそられるテーマです。
倉敷通信   2001年08月08日 16時46分                  一番上に戻る
 土曜会の皆様、残暑お見舞い申し上げます。赤城神社へのドライブ楽しそうですね、小生は遠方でもあり遠慮させていただきます。
 小島さんの参加したIT業界の人々との集まりは面白そうです。全く新しい人種が出現したのか、あるいは我々の時代にも編集関係とかライター等に関係している人々の間での気質なのか、IT時代と言われている現代の世の中が多少理解されるかも知れないと思えるからです。というのもどこまで進歩していくのか見当もつかないIT技術の中で最も重要なことはコンテンツであると言われています。この言葉もハッキリとはしませんが、情報の内容とでも理解しています。ようは,都市は情報で存在している、東京がこんなに大きくなっているのもその理由の筈です。時間がきましたのでこの続きは次の倉敷通信で! 
倉敷通信   2001年08月02日 11時39分
 暑い日が続いていますが土曜会の皆様お元気でお過ごしのことと存じます。昨日は、家の近所にあるプールへ水浴びと、出掛けました。岡山県が設立した財団法人が運営しているホテル・文化施設等々のある豪華なものです。中国地方は政治的に有力者が多い(所謂一般的にいわれている意味)せいか、かっての時代に箱物を大量に借金で作り、現在はそれらの維持管理に四苦八苦しているのが大部分の自治体の状況です。私も現役の時代にそれらのお先棒を担いできたのですから、大きな口はたたけませんが。ただただ毎年8月を迎えると、今から56年前には想像もつかない「時代を創った」のか、あるいは「時代に生きている」のか判然とはしませんが、我々の時代とは!と言ったことを、豪華なプールで夏の空を眺めながらボンヤリと考えていました。
倉敷通信   2001年07月13日 14時33分
 昨日は広島に車で、出掛けました。6月下旬から急に忙しくなり、東京に2回、広島を3回、庄原(広島・岡山・島根・鳥取の県境の町)を訪ねるなどしました。
 今日は久しぶりに家でくつろぎ庭の手入れをすませ、「土曜会」の便りをするべく机に向かったところです。東京では連続して会合を持ち、かなり激しい議論を展開したのも約40数年の時間が経過したとは思えず、昔の友は良いものだなあと感じたことです。
 さて、益田の議論への疑問あるいは反論また同感する点など、白根の北岳の回想、などなど思いはありながら文章にしてとなるとなかなか面倒になってきまますが、努力して参りたいと考えております。ではまた便りをします。
倉敷通信   2001年05月17日 16時13分                  一番上に戻る
 久しぶりの投稿です。11日から14日まで滋賀県の長浜市にでかけました。ツウデイマーチに参加するためです、このイベントはどうも倉敷がルーツらしく昨年・今年と連続して20Kmのコースに出場しました。倉敷に居を定めてから初めてのことです。長浜の病院に次男が勤務していることもあって、長浜での徒歩にでかけたのです。
 天気は素晴らしく、琵琶湖を眺望しながらのコースもよく初日はどうにか持ったのですが、2日目に腰痛が起き、リタイヤの憂き目にあいました。長男がこのほうめんの専門ですので、指示に従っての治療に励まざるを得ない状態です。
 先日までのメールで桜が話題の中心でしたが、現在は5月!みどりの美しい季節の盛りです。
 機会を見つけて土曜会のメンバーで武蔵野のみどりを探勝しましょう。
倉敷通信-四谷の銀杏-    2001年04月14日 18時40分
 東京の四谷にある銀杏についてノートしてあったのを報告します。題は「おれらの記念樹」です。
 大正5年(1916年)3月学習院初等科卒業生49名は、同年5月6日この銀杏の苗木を卒業記念として、四谷仲町の院の一隅に植えた。大正15年その若木は鉄道省四谷駅信濃町駅間隧道新設工事のためこの地に移植され生長しつづけている。昭和49年(1974年)9月古希を超えた24名の生存者は、恩師、93翁、岡崎常太郎先生と共に銀杏の由緒を永く後世に伝えるためこの碑をたてるものである
 この記念碑をみたのは数年前の桜の季節です.碑の設立者の年齢は我々世代の親の世代であり、また学習院といふ性格からか、岩倉・久我・西郷・毛利・島津などの明治維新以降3世代目のグループです。
 桜・古希に近い。ほぼ半世紀経過後の土曜会などなどをキイワードに!ではまた再会を。
倉敷通信    2001年04月11日 20時41分                 
 桜の季節もおわりましたね。昨日、広島の桜の散り際を見て来ました、平和記念公園のです。樹齢は40年程度で、私が広島に赴任した頃に植樹したもので、現在が最盛期です。桜を植える時、いつも感じることですが、この花見が出来るまで生きていたいものと思ったり、後の時代の人々が観るのだな、と得心したりしたことを思い出します。年令のせいでしょう。
 なお、2001年4月から8月までの「倉敷通信」も、「くらしきの話」誕生の経過を知るために加えました。

一番上に戻る

くらしきの話その1に戻る